宮本輝は知っている

 違いのわかる男なのです。
 ダバダー。ダバダバダー、ですよ。
 あの頃、宮本輝氏はずいぶん大人の男に見えていたけれど、久しぶりにネットで観てみるとえらく若くて驚きました。あんなに若い頃から違いのわかる男だったのですね。

 第157回芥川賞の宮本輝氏の選評が物議をかもしています。
 この件については、もっと早く書いておこうと思っていたのだけど、いろいろあって少し出遅れてしまいました。

 さて、宮本輝氏の選評ですが、どうやら「もはや差別発言」であるらしく、宮本輝氏は「老害」であるらしい。

 最初に書くと、この件でぼくが気になっているのは、宮本輝氏ではなく、宮本輝氏を問題視している一部の人たちのほうです。

 彼らはそもそも、選評を全文読んだのだろうか?
 選評の対象の作品を読んだのだろうか?
 読んで、そのうえでものを言っているのだろうか?

 あくまで推測にすぎないのだけれども、どうにもそうとは思えないのでした。拡散された「部分的な言葉」「一方的な言い分」に反応しているだけの人が大多数のように感じています。
 条件反射のようなその反応の速さからもそう思えるし、それに、彼らの言葉からも。

 なぜなら選評をきちんと読めば、差別的発言でないことは明白に読み取れるし、作者の力不足が原因と言っているということもわかるからです。
 そしてほかの選考委員たちも表現の違いこそあれ、みんな似たりよったりなことを書いています。ともかく褒めている選考委員は誰もいません。宮本輝氏ひとりが不当な評価をしているわけではないということです。

 要するに、せっかくの深刻なテーマを読者に伝えられていない、ということです。
 そんなふうに同調しにくく、退屈な読み物となってしまっているのは、作者の力不足のせいでしかありえません。
 宮本輝氏が言っているのは、つまり「読者がそのテーマに同調できるように書きなさい」「読者が退屈にならない作品を書きなさい」という最上のアドバイスなのでしょう。あたりまえのことですが、小説は、小説である以上、読み物としての価値が必要で、テーマだけで評価されるものではないのですから。
 それがなぜ「読み手である宮本輝氏が差別をしている」という理解になってしまったのでしょうか。

 簡単です。
 選評の全文、そして該当の作品に目を通さず、拡散している言葉の端だけをとらえて、印象でものを言っているからです。

 また、作者自身の言葉の影響もあるでしょう。
 作者自身がそう言ってしまったので、それをそのまま受けとめた人も多かったかもしれません。
 痛烈な批判を受ける腹立たしさ、悔しさは、よく理解できます。
 頭に血がのぼり、選評のメッセージを正確に読み取れなかったのかもしれませんが、それにしても怒りをぶちまけるやり方を間違えていますよ。悔しさは自分の作品に昇華させるしかないでしょうに。

 とりあえずぼくは、選考委員が今後、作者に変に気を使ったような、肝心なポイントをぼかしたような、どこかモヤっとした選評を出すことにならないかと、そちらの方が少し心配です。大丈夫でしょうけれど。

 ところで、差別的(だと思った)から老害呼ばわりする、というのはいかがなものなのでしょうね。そこに矛盾は発生していないでしょうか。

 責任を持って作品を読み自分の名前を背負って選評を書いた宮本輝氏を、作品も選評の全文もおそらくは読まずにネットの情報の端くれだけで批判する人々。なにかおかしなことが起きていないでしょうか。


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