見出し画像

哀愁のスパイ

2019年に書いた短編です。
9月19日の「敬老の日」に向けて!!

 梅雨でもないのに長雨が続いていたが、久しぶりのすっきりとした青空に「そうだ。洗濯だ」と、年甲斐もなくウキウキしてベランダに生成りのポロシャツを干しているとポケットに何やら紙切れがあった。取り出すと「指令」と書かれていて私は心臓から「キュッ」と聞こえるほど凍りついた。
「ヤバイ!これはいつ入れられたんだろう」

 本部からの指令は末端の私に顔を知られないように密かに渡される。買い物袋の中だったり、ズボンのポケットだったりと。このシャツは一ヶ月の間に三度着たがいつだったのか?七十歳を過ぎてすっかり指令など無いだろうと思い込んでいた。まだ私が必要とされる任務があるのならやり遂げたい。

 濡れた指令書を破らないように慎重に広げ、クリアファイルの上に置いて陰干しした。指令が一ヶ月前なら、行動を起こさない私を見限ったかも。先週ならまだ間に合うかも知れない。完全に乾くまでの二時間、私はただ呆然としていた。指令書は封筒ではなく折り畳まれていたものだったが、判読できたのは初めの方の「北区赤羽台三丁目 たばこ屋 ラーク七カートン 次の指令は」だけだった。
 中盤から後半までは全く読めない。おそらくそこに指令の詳細が書かれていたはずだ。考えてもしょうがない。とにかく行動しよう。着替えてすぐに電車に乗った。赤羽駅までは京浜東北線に乗りかえて九十分だ。覚えたばかりのスマホで赤羽台三丁目を調べると確かにたばこ屋があった。グーグルマップで駅から道案内されあっという間にお店の近くまできた。絵に描いたような路地の角にある昔風のたばこ屋だ。「時間がない」と自分に言い聞かせすぐに小さなガラス戸を叩いた。「はいはい」と戸が開くと私より五歳ほど上のようなお婆さんが顔を出した。

「良いお天気ですね〜。銘柄はなんでしょうか?」
「ラークを七カートン下さい」
その時、お婆さんの目が光ったように感じたが気のせいかも知れない。

「二万九千四百円になります」
「えっ?そんなにするの?」
 タバコを吸わないので予想だにしない金額に声が出てしまったが、七つすぐに出てきたのは用意していたのだろうか。三万円入っていたお金は二週間分の生活費だが、この出費はどこかで回収できるのだろうか。帰りの電車賃はギリギリ間に合う。お釣りと領収書をズボンのポケットに入れて大きめの袋を受け取ったがこの場を動けない。何かないのだろうかと店の奥を覗くと婆さんにガラス戸を閉められた。

 ここには何も無かった。腹立たしい気持ちのまま駅前の公園のトイレで用をすまし、ベンチに座ろうとすると後からきた大量の尿漏れにズボンが汚れた。私はすっかり老人だ。こんな歳で仕事ができると思っていた自分がバカだ。電車賃の六百円を水で洗おうとポケットから出すと濡れた領収書も一緒に出てきた。回収できない領収書を持っていてもしょうがないから捨てようとしたら小さな文字が目に入った。慌てて目に近づけるとプーンと臭い。持つ指にじんわり小便が垂れてくる。なんて量なんだ。情けない。文字はすでに滲んでいたが「国立市西二丁目 タバコ屋 ラーク七カートン」しか読めなかった。なんで鉛筆で書くんだ!それにしてもなってこった!あの婆さんはちゃんと次の指令を私に出していたのだ。しかし、同じところに行くことは禁じられている。

 ベンチで空を仰ぎながら考えていたが突然怒りが湧いてきた。「もう私は六百円しかないんだ。国立まで行けるもんか。大体またタバコ七カートンも買ったら今月の私の生活は破綻するじゃないか。そうだ!よく良く考えてみれば今までは前金だったじゃないか。昨日家賃を払いに銀行に行ったが振り込まれてなかった。辞めた辞めた」六百円についた尿を水道で洗い流し私は電車に乗り家に帰った。ドアを開けようとすると二軒隣の大学生に声をかけられた。

「あれ、お爺さん、タバコ吸うの?」
「あ、いや、吸わないけど。ちょっとしたことで買わざるを得なくてな」
「それ、ラークの袋だけど中身もラーク?」
「あぁ、そうだ」
「やったー、めっちゃラッキー。今、親父に駅前のたばこ屋まで行ってラークまとめ買いして来いって言われたばっかりなんだ。幾つ?」
「え、あぁ、七つだけど」
「買う買う。三万円ね。お釣りは良いよ。ラッキー。ありがとね」

 呆然として部屋に入り、ズボンとパンツを脱いで洗濯機に入れようとしたらクリアファイルの上の指令書の文字が目に入った。時間が経ってほぼ全部が見えるようになっていた。
(買ったタバコは次の店で引き取る。家に閉じこもらず運動をしろ)
「余計なお世話だ!報酬のない行動させるな」
 怒りのあまりまたも尿が漏れてポタポタとカーペットに垂れてきた。
 私は引退を決意した。

                  尿。違った、完。(でも来週、続きあり)


この記事が参加している募集

#眠れない夜に

68,748件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?