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本能寺の変 1582 光秀の年齢 4 146 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の年齢 4 最大の敵 

光秀は、滝川一益の上野入国を思い起こした。

 武田を攻め滅ぼした後。
 一益は、伊勢に帰陣せず。
 「関東八州の御警固を申しつけ」(『信長公記』)
 
そのまま、上野へ入った。
 「老後の覚えに上野に在国仕り」(『信長公記』) 

一益は、信長の命に従った。

 そうする他、術(すべ)がなかった。

 光秀は、すぐ近くでこれを見ていた。
 「明日は我が身」、である。
 忘れられぬ、光景だった。

 滝川一益の老後は、信長によって、決定づけられた。 

光秀には、国替えの可能性があった。

 一益と同じ道。
 「東国の儀御取次彼れ是れ申しつくべきの旨」(『信長公記』)  

 中国攻め~九州攻めの後。
 「中国の儀」
 「九州の儀」
 その可能性は、きわめて高い。

 これについては、後述する。


          ⇒ 次回へつづく




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