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森達也さんの本を読んで。大人になるのが楽しみになる。

久しぶりのnoteです✏️!初めて書いたnoteが2020年1月18日、そのnoteを少し覗いてみると冒頭に「4月から高校1年生」とありましたが、今では、1週間後に高校2年生!常套句になりますが、時間って本当に貴重ですね。あっという間に受験生になる...勉強しなくちゃ...最近はそればかり頭にあります笑。そんな勉強からちょっと息抜きで...!

今回のnoteの題材は、日曜日に買ったばかりなのに秒で読み終わった、森達也さんの著書「U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面」です。2016年7月26日の末明け、神奈川県の知的障害者福祉施設津久井やまゆり園で発生した入所者19人刺殺事件「相模原障害者施設殺傷事件」を巡って描かれた本です。事件を起こした植松聖氏は、死刑が確定しています。

このnoteは、相模原障害者施設殺傷事件の背景についての記事というより、森達也さんが著書で敷いてくださった論点をもとに、植松死刑囚の特異性について、本書に記載してあった考察を紹介し、それに対する私なりの考えを書きました。これらの見解は専門知識も何も持ち合わせていない私一個人の見解で、拙い部分も多いと思います(内容に関する反論は大歓迎です!)が、どうか最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

優生思想だけではない

事件となれば、やはり気になるのは、その事件を起こした張本人についてではないかと思う。皆さんは植松聖死刑囚についてどうお考えだろうか?わかりやすい言葉で言うと「非道」「凶暴」「精神がおかしい」というところだろうか。ニュースで連日報道されていた微笑みの顔を覚えている人は多いのではないかと思う。しかし実は、植松氏の正体は明かされていない。どういった要因で障がい者殺害に至ったのか、や、精神疾患の有無はわからないのだ。

事件要因に関して、一般には「障がい者への偏見と差別」、つまり優生思想故の犯行だったと認識されている。しかし、植松氏は、単に障がい者を蔑視していたから事件を起こしたわけじゃない。犯行時に植松氏は施設の職員を拘束し、入所者を指して「喋れるか?」と聞いていた。そして、喋れないと答えた入所者を殺害していった(途中から「時間がない」と区別することをやめていたが)。つまり、植松氏は、意思疎通できるかどうかで命の価値の有無を決めていたのだ。意思疎通ができない人というのは「名前、年齢、住所を言えない人間」らしい。そういう人間は、自らの家族とその周りを不幸にする一方でお金がかかるため、生きるに値しないという。しかし一方で、植松はやまゆり園の元職員であり、一時期は入所者を可愛がり、その仕事を「天職」とも言っていた。そこから何があったのか?植松氏はイルミナティカードにハマったり、「日本は滅亡する」などとめちゃくちゃなことを言い始めたり、ある時から確実に様子が変わったことがわかっている。何がそうさせたのか?様々な仮説がある。常用していた大麻の影響などで精神病に襲われたという説もあれば、やまゆり園の職員の障がい者への虐待(園では利用者への暴力や、食事の乱暴な与えがあったことが明らかになっている)を見て障がい者への見方が変わったのではないか、という説もある。どの要因も影響していたのではないか、と私は思う。ただし、その影響の詳細や度合いが今後の社会にとって大事なのだ。もしやまゆり園に問題があったならば、福祉施設に対する大きな見直しが必要となる。また、植松氏が精神に障がいをきたしていたのであれば、精神病院の見直し、そしてそもそも論として裁判のやり直しが必要となる。しかし、その謎が解明される可能性は極めて低いだろう。その要因の1つは、『加害者と被害者』の構造が熟成してしまっているからだ。障がい者19人を刺殺した植松氏は『悪』で、障がい者をケアしている(はずの)やまゆり園は『善』だ。やまゆり園が『悪』である可能性を示唆してこの構造を崩すことを、世間は許してくれない。だから、誰も足を踏み入れない。そしてもう1つ、この事件の真髄の究明を妨げるものは、ご存知の方も多いと思うが、植松氏の死刑が確定したからだ。あんなメディアに対して饒舌だった植松氏だが、今では面会や手紙のやり取りは金銭の差し入れをした人など、特別許可を有する人に限られている。

発達障害?

精神鑑定に関してだが、もう少し詳しく話したいと思う。前提知識として、裁判において精神鑑定は重要。であるはずだ。被告の精神状態を認識することは、被告の有する責任能力を問うことに直結する。責任能力のない人は無罪となる。今回の植松氏に対しては、裁判所依頼の大澤達哉医師は「パーソナリティ障害及び大麻使用障害・大麻中毒」、弁護団依頼の工藤行夫医師は「動因逸脱症候群を伴う大麻精神病」との結果を出した。前者は大麻使用は犯行への影響がほぼなかったとして責任能力ありと判断し、後者は深く影響があったとして責任能力がないとしている。裁判所は前者を採用した。しかし、どちらの精神鑑定も、はっきり言えば杜撰だ。枚数も薄く、そして驚くことに、生育過程についての調査もなかったのだ。そんな中、本書では森達也さんと郡司真子さん、森達也さんと松本俊彦先生との対話において、植松氏の「発達障害」の可能性が示唆されている。発達障害は以下のように大きく3つに区分できる。

①広汎性発達障害(「自閉症スペクトラム症」ともいう)/ASD
極端なこだわりを持つことが特徴的で、コミュニケーションをとることに困難があることが特徴
②学習障害/LD
知的発達には問題がないものの「読む」「書く」「計算する」などに困難があることが特徴
③注意欠陥・多動性障害/ADHD
活動に集中できない、時間を守れない、衝動を抑えられない、などの衝動が頻繁に強く起こることが特徴

松本先生や郡司さんは植松氏の発達障害の可能性を考える。特に、本書で郡司さんはLDの可能性を示している。いや、植松氏は筋道を立てている。知的障害はスペクトラムなのだ。単に「障がいを有する/有しない」ではなく、「軽度」から「重度」までグラデーションとなっている。郡司さんはその学習障害のスペクトラムの1つとして、植松氏には「解釈する」力が著しく不足していると述べている。私はとても共感した。職員の障がい者への対応の悪さを見て、「みんなは障がい者にいなくなってほしいと思っている」という短絡的な思考回路がその現れだ。また、前述した通り、植松氏は「意思疎通ができない者は生きる価値がない」としているが、会話の中でその「意思疎通ができない者」は何度か「障がい者」になっていた。また、「ヒトラーの思想が降りてきた」という発言に関して、当時植松氏は、障がい者に対する安楽死政策を指すT4作戦について知らず、ヒトラーの存在は「ユダヤ人を虐殺した人」として認識していたのだ。その思想が降りてきたと言っているのだ。これに関して、植松氏は「それほど深い意味を考えて言ったわけではありません。」と面会で言っている。このように、植松氏が自身の思想においても軸がブレブレなのも、解釈における著しい未熟さを表している。

本書を通してこの事実を知り、私は今までの自分の認識との齟齬に違和感を感じた。未熟ながら、私は以前まで発達障害を「自分とは関係ないもの」として捉えていた。しかし、知的障害の孕むスペクトラム性について知り、その考えがガラッと変わった。「優先順位が本当につけられない人」とか「解釈が浅薄な人」、私の周りにも全然いるし。そして以下の対話中の郡司さんの説明にさらに衝撃を受けた。

日本っていったんドロップアウトしてしまうとリカバリーがすごく難しいから、社会に対する不満や怒りが強まるばかりで、これは安倍政権を支持しているネトウヨや自民党ネットサポーターでバイトしている人たちなんかにも共通するけれど、自分たちが抑圧されている原因は現政権にあるはずなのに、自分を攻撃者である政権と同一化して、リベラルな人や政権に対して講義の声をあげている人を攻撃するという倒錯した現象が起きています。(116頁)

上記は、植松氏に見られる解釈の欠陥に関する補足説明だ。社会に抑圧され、苦しい状況に陥った人たちが、短絡的な解釈故に自分と政権を同一化し攻撃に至る、ということを言っている。
この中で私の目を引いたのは、太字になっている言葉たちだ。実は私は少し前に、学校の保健の授業で、「防衛機制」について習ったばかりだった。義務教育の範囲には組み込まれているが、防衛機制、というものをご存知の人はどれぐらいいるのだろうか?防衛機制論は、オーストラリアの精神科医のフロイトが提唱した概念で、ストレッサー(ストレスをもたらすような事象)に対して人は無意識に心の防衛機能が働き、その防衛機能は何種類かに分けられる、という論理だ。防衛機制には以下のものがある。フロイトが提唱した元祖のものに、時代を経て新しく提唱された防衛機制も加わっている。

▶︎否認 …不安や苦痛から目をそらして認めない
ex)悪いということを認めない
▶︎取り入れ…周囲の言動を自然と真似るようになる
ex)子どもが親と同じ言葉遣いをするようになる
▶︎退行…衝動や葛藤についての不安から自我を守るために、以前の状態、より未発達な状態に逆戻りする
ex)子ども返り
*理性から切り離されるという視点で、現実・理性の縛りから解放し、より自由に新しい発想や発見に導く働きも
▶︎投影…自分の中にある不快な感情を他者が持っているかのように知覚する
ex)性格が悪い人は相手を性格悪いと感じやすい、優しい人は相手を優しいと感じやすい
▶︎抑圧…著しい苦痛・不快感を引き起こすものを意識から締め出して自我を守る
ex)トラウマ体験を忘れる
▶︎逃避…ストレスの原因から物理的にも心理的にも逃れようとする
ex)テスト前に掃除を始める
▶︎反動形成…受け入れがたいものの意識化を防ぐために、その衝動とは反対方向の態度を過度に強調する
ex)片思いの相手に対して素っ気なくする
▶︎合理化…もっともらしい理屈をつけて言い訳する
ex)テストがうまくいかなかったのは寝不足だったから
▶︎置き換え…ある対象に向けられている感情を別の対象にむける
ex)失恋し、別の人への好きという感情だと錯覚する
▶︎打ち消し…過去の思考・行為に伴う罪悪感や恥の感情を、それとは反対の意味を持つ思考・行動によって打ち消そうとする
ex)悪口言った相手の機嫌をとる
▶︎隔離…受け入れることができない感情を自分の意識から切り離して遠ざける
ex)先生は生徒に対する苦手意識を切り離している
▶︎同一化…自分にないものを持っている人に自分を近づけることで自分を高める
ex)有名人の生活ルーティンを真似る
▶︎昇華…受け入れがたい衝動を社会的に価値のある行動・活動に変化させる
ex)親が憎いから医者になって見返す
▶︎補償…自分の苦手な部分を自分の得意な部分で補う
ex)勉強ができないからサッカーを頑張る

このことを学習した時、なんでこのことは一般的には知られていないんだろう?と強く疑問に思った。これらの防衛機制は、私たちに日常生活に溢れている言動を全て明確化している。防衛機制を認識することは、自身の行動の傾向を自己認識すること、他者の行動の背景を想像する力を育むこと、結果としてコミュニケーション力の向上につながるのではないか、と思ったのだ。例えば、ある場面を考える。ある男の子に告白されたが、自分には別に意中の相手がいるため断った。しかしその後、その男の子には冷たく接しられる。なぜ?!と頭を悩ました。しかし、防衛機制に当てはめてみると、おそらくそれは「反動形成」ではないのか。好きな相手に振られたという受け入れ難い現実へのコーピングとして、好きじゃない、という真反対の態度をしたと考えられる。また、冷たく接しられたことに対して、自分は「なんだよ私のこと好きだったのに!振ったんだしもうどうでもいいわ!」と怒って知らんぷりするかもしれない。これも「反動形成」ではないか?「困っている、傷ついている」すなわち「辛い、なぜそういうことをしたのか知りたい」という自身の感情を受け入れたくなく、その真反対の「憎しみ、放置」という態度をとってしまうのではないか。さらに、振られた男の子は急にオシャレに目覚めるかもしれない。それはもしかしたら、「こんな僕を振ったなんてあいつありえないわ!かっこよくなって後悔させてやる」という思いで「昇華」の防衛機制が働いたのではないか。このように、防衛機制の知識を持てば、客観的に、人との接し方や自分の言動を改めることが可能になるのではないか、と考えた。なのに、なぜこの防衛機制についての知識はこんなにも広まってないのか?論文を探してみても、当該数がとても少なく、かつどれも古い。とても不思議だ。

郡司さんの説明について、本題に戻る。私がなぜ衝撃を受けたのか、もうお気づきだろうか。太文字の言葉が示しているように、無意識だろうけれど、郡司さんの説明には防衛機制が率直に表れているのだ。はっきりと「抑圧」「同一化」「攻撃」とある。すなわち、郡司さんが例として挙げている政府の至らない点や右翼の言動は、普遍性を宿る、ということなのではないか、と思ったのだ。このような、我々からすれば「自分はしない」ような行動を、防衛機制の枠に当てはめてみると、そこには普遍性が宿っていることが多いのではないか。そう考えると、植松氏の犯行や思考を防衛機制の視点で読み解いてみると、知的障害の有無にかかわらず、現代社会で生きる人として覚えのある思考や言動もあるのではないか、それはきっと教訓になるだろうな、と私は思考を巡らせていた。

植松氏にデジャヴ...

本書の中で、私が一番好きな部分を紹介させていただきたい。218ページの、松本俊彦先生と森達也さんが、植松氏の犯行の動機について話している会話の一部だ。

「強い憎しみを持って彼らを排除しようとしたというよりも、彼は彼なりの合理性を持って、あるいは社会的効率性を考えて…」
「社会や世界、多くの人々のために」と僕は言った。
「無邪気に軽い発想で」と松本はうなずいた。

なぜこの箇所が好きなのか、その理由は2つある。1つは、文脈的なことだが、私はこの『言葉のキャッチボール』の描写がとても好きだ。「仲良しか!」ってツッコミたくなる。「考えて…」のてんてんてんや、「と僕は言った」、「と松本はうなずいた」という表現に、「気持ちが100%お互いに行き届いている」と感じる。これこそ、本当の会話、本当のコミュニケーション、だなぁって感じる。2つ目の理由は、内容の方だが、私は密かに、植松氏のこの『浅はかな根拠で、合理性・社会的効率性を考え、世のためになると判断した軽率な言動』に一番問題性を感じていたからだ。その理由は、この言動に強いデジャヴを覚えているからである。この箇所を読んだ時、私はある出来事を思い出した。一時期、私と同学年の人が別の人との間でいざこざになり、SNSにおいて「みんなであの人を殺そうぜ」と投稿し、それに多くのいいね!や賛同のリプライがついた、ということがあったのだ。その投稿主は「あの人がいなくなればもっと平和になる」とも投稿していた。私はその時に強い恐怖感を覚えた。いくら子どもとは言え、16歳だし、そういう言葉使いをするのは軽率すぎる。また、この人は本当にそうしかねない、という思いもあった。その投稿に反応している人もまた、なんで?と問いたくなる。そして、この行動は、植松氏の「みんなは障がい者にいなくなってほしいと思っている」という錯覚故の「殺害」という短絡的な結果に至った思考と、本質的に非常に似ているところがあるのではないか?と思った。

SNSが普及している現代社会で、このような植松氏に似た、「偏った根拠と合理性」を孕んだ出来事は多く起こる、あるいは起こっていると推察できる。SNSの普及故に、ツイートや投稿など一方的なコミュニケーションが普通になり、また、自分の好む情報の取捨選択が可能になり、それらは想像力の低下に繋がりかねない。社会は今後短絡的な解釈で蔓延するかもしれない。また、「いいね!」を「賛同」と捉えてしまう(むしろそれが常軌かもしれない?)ことだって多いはずだ。間違った正義感だ生み出されるかもしれない。

だからこそ、植松聖死刑囚が起こしたこの相模原障害者施設殺傷事件に対する調査が進んでいないこと、むしろ事件の風化が進んでいることに、私は悔しさと強い危機感を感じる。

最後に、森達也さんについて

実は、私はこの本を買う気はありませんでした。しかし、本屋さんで立ち読みしていたらいつの間にか2時間経っていました。それほどのめり込んでいったのです。内容が多角的に深掘りされていて興味深いのはもちろんですが、私は森達也さんの姿勢にも魅せられました。少し鈍感で、どこか冷たい感じもする。しかし、すごい考察力と論理的思考を持ち合わせている。私の憶測ですが、同じ高校の教室にいたら、自分からあまり話すことがなく接しづらいが、仲良くなるととことん面白いタイプじゃないかなって思いました。本書中に、少年法の目的を正しく理解していない記者のに対して、「勉強し直してと言いたくなる」という表現がありました。私はこれに少し反感を覚えました。「そんなこと言わなくても…知らないことは今から学べばいいじゃん…」って心の中で呟いたのを覚えています。しかし、読み進むにつれて、逆に、森達也さんのこの理論思考故のちょっとした冷たさに魅力を感じるようになりました。大人は忖度します。利益を求めます(求めなければいけないことももちろん多いですけどね)。"社会"に合わせます。しかし、森達也さんはとことん違うなぁと感じながら読んでいました。自分を一切包み隠さないあなぁ、と思いました。森達也さんがテレビ界から排除されながらも、自分が正しいと信じる道を突き進む姿勢にその真摯さは表れています。
私は4月から高校2年生になりますが、将来は法学部に進みたいと思っています。しかし法曹や企業弁護士を目指しているわけではありません。大まかながらも「法律学と社会をつなげる」仕事をしたいと思っています。古市憲寿さんの法律学専門バージョン、みたいな?笑笑「法律や犯罪、犯罪者に関して一般市民は理解する必要がある」というのが私の考えです。しかし、その考えはあまり普及していないようにも感じますし、犯罪に関しては反感も買うと思います。研究したい、活動したいと思っている分野は需要があるのか、私はよく悩みます。
そんな私にとって、森達也さんの大人としての真摯な言葉と行動は深く刺さりました。大人になるのが楽しみだなーって思いました。
この本を書いてくださって、ありがとうございます。

Twitter:
森達也さん: @MoriTatsuyaInfo
郡司真子さん: @bewizyou1
講談社現代新書: @gendai_shinsho

拙い文章でしたが、ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
とてもうれしいです。
Twitter: @mitohi_3150

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