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「那珂湊反射炉」建設プロジェクトに迫る【茨城県立歴史館:特別展】

幕末、各地で「反射炉」が建設されました。
よく知られているのは伊豆の「韮山反射炉」でしょうか。
水戸藩でも那珂湊に反射炉が建設されました。
現在、茨城県立歴史館で開催されている特別展では、那珂湊反射炉に関するお宝資料を公開中です。
早速行ってみました。

那珂湊反射炉の模型

幕末の日本では、アヘン戦争や日本近海での外国船の出没など対外危機への不安が高まっていた。

水戸藩でも文政7年(1824年)、大津浜にイギリス人船員12人が上陸する事件をきっかけに海防を重視することになった。その上で、外国船を砲撃するための大砲を製造する必要性に迫られていた。

そこで、先進的な考えを持ち、即行動の水戸藩主斉昭公。

早速、青銅製の大砲を作ってみた。
ところが…。
青銅は高価なうえ、鉱山産出分だけでは材料が足りず、寺院の梵鐘まで供出させて作った。
そこまでして作った大砲。
外国船に向けて砲撃するには脆弱すぎた。

やっぱり鉄製の大砲じゃないと…、ということで反射炉を作ることになった。

ここから水戸藩の未知への挑戦「プロジェクX」が始まる!

 風の中のすばる〜♫
   砂の中の銀河〜♫
    「地上の星」中島みゆき

しかし、反射炉を建設し、操業できる者は水戸藩にはいなかった。

そこで、斉昭公は、他藩より新式の技術をもつ藩士を招き、大工、瓦職人など伝統的技術をもつ職人を採用した。
ここに藩の枠組みを取っ払い、身分制度の壁さえも超えたプロジェクトチームが結成された。

反射炉建設は、1冊の蘭書「リエージュ王立鉄砲鋳造所における鋳造法」(1826年出版)を頼りに試行錯誤しながら続けられた。

プロジェクトチームの努力の末、ついに安政2年(1855年)に1号炉(西炉)、同4年(1857年)に2号炉(東炉)が完成!

こうして成功の兆しが見え始めてきた反射炉事業だが…。
斉昭公の失脚により中断され、プロジェクトチームも解散してしまう。

取り残された反射炉は…。
元治元年(1864年)、天狗党の乱の激戦「那珂湊戦争」でことごとく破壊され、無残な最期を迎える。

 ヘッドライト・テールライト〜♫
  旅はまだ終わらない〜♫
  「ヘッドライト・テールライト」中島みゆき

反射炉の破壊によりすべてが失われたかのように思われたが…

那珂湊反射炉プロジェクトに参加した大島高任は、官営釜石製鉄所、釜石鉱山田中製鉄所の建設・操業に関わることになる。
官営八幡製鉄所の操業にあたっては、釜石から技術者が派遣され、大島高任の子道太郎は初代技監となった。

那珂湊反射炉のプロジェクトを担った技術者の経験や培われた技術のバトンはつながっていた!

バトンは、東北の釜石、九州の八幡での近代製鉄業に引き継がれ、日本の近代化の発展に貢献し、今もそのバトンは引き継がれている…。
               〜終〜


反射炉建設のストーリー展開はドラマチック。
映像作品を一本見終わったような感動を味わうことができます。
是非、茨城県立歴史館に足を運んでみてはいかがでしょうか。

場所:茨城県立歴史館
期間:2月16日〜4月7日

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