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芸術は空間を喰って生きている。

〜みたにノ戯言P.8〜

これはあくまでも僕自身の芸術論であるが、芸術作品はそれ単体では芸術になりえない。

そもそも、物や事柄をそれ単体のみ存在させることが出来るのかは疑問であるが、やはりその作品が存在する空間が、どの様なところであるかが、その芸術の意味するところが多いに変化する。芸術は空間によって生かされて、空間を喰って個性を身につける。

なので、絵画や写真や彫刻など、それのみで芸術的価値があるとされる作品に対して、僕は非常に違和感がある。本来、モノの好き嫌いや良し悪しなどは、その事象、物体のみで図られる物ではない。皆、無意識のうちに様々な複合的要素を鑑みて、その選択や決定を行なっているのである。

芸術作品に触れる上で、最も重要視されがちなのは、作者である。その作品を生み出した人物の影響はやはり我々、鑑賞者にとって大きい。芸術の金銭的価値もそこで決まりがちだ。だが考えて見てほしい。

道を歩いていたら、全く作者がわからない作品に出会ったとする。作者がわからないのだから、テーマや作風や社会的影響力なんてものも当然、知るよしもない。それは貴方の心に大変響くモノであった。つい手にとって買ってしまうかもしれない。涙が止まらなくなるかもしれないし、なにがなんでも作者を探すかもしれない。誰しも芸術に限らず、経験したことがあると思う。

その作品に感銘を受けたのは、作者の名前を見たからではないのだ。貴方自身がそのモノに価値を、意味を見出しているのである。

要するになにが言いたいかと言うと、作者やその背景などは作品に勝手に付随しているモノで、作品本来の存在や価値に直接影響を与えていないと言う事である。

ではなぜ、皆んな作者を見て金を払うのか?
作品自体よりも、その作者に惚れているからに他ならない。この時点で作者と作品の立場が逆転している。初めは作品に対して抱いていた想いは、いつしか作者に対する思いになり、

それは本当に芸術作品から価値を見出していると言えるのか?

もちろんその作品を生み出すには、彼らの力はなくてはならないだろう。では同じ作品を別の無名の人物が生み出していたらどうなのか?おそらく多くの人々は価値を見出さないはずだ。

ここから見えてきたことは2つ。
芸術作品か否かは受け手に決定権があるということ。
多くの場合作者を見て価値を決めていること。

作者を知らないと考えた時、その作品の価値はやはり空間とそれに付随する時間と受け手の気分に左右される。

受け手に芸術と認識させ価値を見出す外的要因は、その空間にある。

そのため、作者よりも作品が置かれた空間の方が、芸術を観たと時の価値の変動に関与している。と言えるだろう。どんなにいい作品を作ろうと、その置かれた空間を意識しなければ、ただ空虚に浮かぶ存在になりかねない。

これは、芸術がカバーする範囲を何処とするかで変わるが、さらに言ってしまうと、受け手がそれを芸術と認識した時点で、そこに作品が無くとも芸術と言えてしまうだろう。

作品と受け手の関係に作者が介入すると、それは作品自体の良し悪しという素朴で根本的な美的感覚から、離脱した価値観が生まれている。


※ちなみにここで言う価値は、金銭的な価値ではなく、個々人の芸術的価値に対する言葉である。

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