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コンプレックスを勲章にできた日

少し前に身内に不幸があり葬儀に参列した。
というか、おじいちゃんが亡くなったのでお葬式に行った。

法事的なことはたしか高校生のとき以来だった。
家庭の都合で、親族のいる県からは飛行機でないと行けない距離に住んでいたので、訃報があってもよほど近しい人のでない限り参列は控えていた。
でも、おじいちゃんとなると話は別だった。

「お葬式 女性 服装」とか検索したりして慣れない法事に社会人として恥ずかしくないよう準備をしてから行った。

こうして記事を書いている今、無事お葬式を終えたわけだけれども、印象に残ったことがいくつかあった。

その中でも一番強烈に覚えているのは、おじいちゃんの骨が骨格標本のようにめちゃくちゃ大きくて力強くて綺麗だったこと。
いや、ずっと覚えていたいと思うほど力強くてかっこよかったのだ。






自分は容姿にものすごくこだわりを持っているわけでもなく飛び抜けて美意識が高いわけでもないが、コンプレックスはある。

思春期頃から、全体的に骨張っている自分の顔の輪郭が気になっていて、
女性らしいなめらかな輪郭に憧れていた。
身長が平均よりも高くて小柄な女の子をうらやむこともあった。
輪郭の隠れる髪型にしたり、本当は履きたいのにヒールを我慢していた。

20代後半頃まで結構なコンプレックスで大掛かりな美容整形も視野に入れたこともあったが、30代になった今はメイクや髪型、姿勢、話し方などなど自分の行動で改善できることを頑張ろうという方向転換ができた。

また、目に見えるものよりも目に見えないものの方が自分にとっては大切にすべきものなんだと時間をかけて気づけたため、それまでのように自分の容姿に執着することはなくなった。

(見た目なんて関係ない!なんて綺麗事であり、生きる上で外見は重要な要素であることに変わりないという考え方はそのままだが)




火葬を終えて骨だけになったおじいちゃんを見て、2時間ほど前までは確かにあったおじいちゃんの顔も表情もわずかな温度も完全に目には見えなくなって、なんというか、空虚だった。

その後、ずんと悲しくなったのは数秒だけだった。

でも。
これって本当にもうこの世にいないものとされているのかどうなのか分からなかった。
燃やされた人間の身体ってこんなに力強くて立派なの?
今にも動きそうだとは思わないけれど、ものすごい質量を感じた。

悲しい場であるはずのそこには堂々とした存在感があって褒め称えたくなってしまった。
身長が高いってだけではないこの存在感。

頭蓋骨からつま先まで目に焼き付けたくなってじーっと観察させてもらっていると葬儀場の方が言った。

「骨壷に入り切らないので、少し小さくしてから納めさせていただきます。90歳を過ぎてここまで骨が残っている方はなかなかいませんよ。」

やっぱり!

箸で壺に運び入れる作業はひとり1回、1本だけだったが、いくつも入れたいと思った。
下の方から順にと言われたので、すねあたりの長い骨を選んで入れたけれど、中でもすごかったのはやっぱり頭蓋骨と骨盤だった。
白い色が綺麗だったし見ただけでずっしり感を感じられた。

最後に会ったとき、おじいちゃんはよぼよぼで腰が曲がっていたけれどしっかりと自分の足で歩いていた。
この骨を見たら納得だった。

とにかく、人に亡くなった後にもこんなにかっこいいと思わされるということがあるなんて知らなかったし、お葬式という場ではあったのに自分にとって新しくてなんだかキラキラした体験だったのだ。

何よりもおじいちゃんが心から誇らしいし、なんならこの丈夫な身体をもらった自分自身も誇らしい。

おじいちゃんはこの強い身体で生き抜いて直接的ではなくとも私たちをずっと力強く守っていてくれたいたんだと思った。
そして、この丈夫な身体を受け継ぐという形でこれからも私たちを守ってくれるんだとも思った。




確かに骨張った輪郭は男性的で、女性である自分には備わっていてほしくないものだった。
でも、おじいちゃんの立派すぎる骨を見て、こんなに強くてかっこいいものを受け継がせてもらった自分のことが好きになれた。

その時の流行に倣ったみんなとおんなじようなスタイルよりも
私だけが知ってる時間を超えた秘密は自分をもっと輝かせるはずだ。

今後やっぱり気になるなって思うことはそりゃあるけれど、でもこれからはこの誇りを思い出して前向きに考えることができると確信している。

これからはサイドの触覚もつくらないし、スニーカーばっかり履くのもやめよう!



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