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前世の記憶が指し示すものは。Part2

こんにちは、ミサンガムーンです。こちらの記事は前回投稿記事の続きになりますので、まだ読んでいない方はこちらから宜しくお願い致します。

さて一つ目の過去世の記憶から、どうやら自分は「女性として生きることの理不尽さ」と「お金が人の幸不幸を決めてしまうのだ」という2つの強いビリーフを持ってしまっているようだということに気付かされた訳なのですが、実際これは自分の人生の中で当時大きな課題になっていると感じていた事と一致していました。

話はさかのぼり、私の母方の祖母は長崎出身で、戦時中20代の頃に原爆に被爆し、その後遺症で残りの人生もずっと体が弱く、何度も脳腫瘍になっては手術を繰り返していました。家でもほとんど寝たきりで、母は子供心にいつも、祖母が早く亡くなってしまうのではないかと不安に思っていたそうです。祖父は戦前生まれのとてもやんちゃな性格で、気立ては良く子供たちには優しかったようですが、いわゆる昔の男性にありがちな「キレるとちゃぶ台をひっくり返すタイプ」で、気の強かった祖母とは夫婦喧嘩が絶えませんでした。

もうどうにもならないほど夫婦仲が悪く、もし祖母に自分の収入があって経済的自立さえ出来たならすぐにでも離婚できただろうに、体が弱くて働くことが出来ないため、我慢に我慢を重ねて祖父と暮らしていくしかなかった。

そんな祖母を見て、女性として経済的な自由がないことはとても不幸だと思って育った母は、私に対してよく「女性は絶対に経済的に自立した方がいいよ」「例え結婚しても仕事はやめない方がいい。収入さえあれば、相手が嫌になってもいつでも離婚できるんだから」と言っていました。

子供の頃学校から帰ってくると、社会で活躍している女性関連の新聞の切り抜きがよく机に置かれていて、「ほらこうやって女性でもこれからは働いて自立できるんだからね」と言われたのを覚えています。

そんな中で育った私は無意識の内に、自分が素直にやりたいと思うことや、女性として自然に興味を持つ分野から仕事を選ぶのではなく、「いかにも男性が選びそうなジャンルやキャリア」をあえて選択し、その中で女だてらに負けずに頑張るという構図を自ら選んできたように思います。

大学まではそれでも、あまり男女差を感じず何の問題もなかったのですが、社会に出て働くようになると、やはり明らかに女性が少ない男性中心の職場環境の中で、マイノリティへの差別というよりは区別としての男女差を感じざるを得ず、自分は女性ゆえに損をしている、努力しても報われないというような思いを、過剰なまでにつのらせては苦しむ日々が続きました。

かといって仕事を辞めて収入を失えば、母が言っていたように一人の人間としての自由も失ってしまう。そういう不安と恐怖から、とにかく辛くても大変でも、自分は絶対に男性に負けずに働き続けなくてはならないのだという思いに、ずっと縛られていたのだと思います。

今になってみれば、そういう思い込みを持っていたからこそ頑張れたことや得られたこともあったとは思います。それでもやっぱり、女性として生まれながら、自分自身が女性であることを喜ばしくないと思っていることは、私にとってはとても心細く辛いことでした。この過去世との出会いをきっかけに、自分はもっと自然体でありのまま女性としての自分を認め受け入れても良いのではないかと、やっと少し考え始められたのだと思います。

さて、そこからしばらく時は流れて、アメリカに来てからの事です。退行催眠はその一回以来、しばらく何年も受けていなかったのですが、次のきっかけが訪れることとなりました。

当時私は、離婚をした後に息子を両親に預け、一人でアメリカに単身赴任中でした。この選択をするまでの紆余曲折はまたいずれ書いてみたいと思いますが、とにもかくにも息子が7歳で小学校に入学すると同時に私はアメリカに渡り、そこから約4年半、アメリカと日本で息子とは離れ離れの生活を送っていたのです。

前述の「女性は働き続けなければならない」という思いもさることながら、離婚しシングルマザーとして唯一の収入源になった私には、仕事を辞めるとか休むという選択肢はもはや名実共にないと思っていました。かつ、子供がいることを理由にキャリアはほどほどに制度をうまく利用しつつ働けばいいという発想も全くなかったため、仕事のことだけを考えた時に何がベストか、何が一番自分にとってキャリアに繋がるのかということだけを考え、元々希望していた海外赴任という道を選びました。

実際に同じ職場の男性はほとんど皆、会社からの辞令一つで海外赴任し、家族はついて来れれば一緒に行く、ついて来れないのであれば単身赴任という形をとっていましたので、自分も子供を連れて行けないのであれば、親に頼んででも行くしかないと思っていました。(今となればこういった仕事第一優先の働き方も既に古い時代のものであり、男性・女性を問わずもっと私生活とのバランスが健全にとられるべきではあると思うのですが。)

この仕事優先の方針は「女性は社会で稼ぎ続けるべき」と常日頃言っていた母の考えにもマッチしているだろうと私は思っていたのですが、ところが。母の孫である息子が生まれると、そうでもなかったということがわかりました。

母は独身時代、いわゆる秘書や会社受付といった仕事をしていたのですが、祖母と同じく病弱であったこともあり、父との結婚後は両立は体力的に難しいと判断、仕事を辞めて家庭に入ります。その後私が生まれ、結果的に母はずっと専業主婦として私を育てました。元々とても細やかで手先も器用、女性的なことが得意だったので、手作りのものや身の回りの世話はいつもあれこれとしてくれ、私がある程度大きくなった後もパートなどに出ることもせず、いわゆる育児中心の家庭的な母として私の面倒を見てくれました。

そんな母からすると、子供を産み母親になったのに、全く生活パターンを変えずにまるで昭和のモーレツサラリーマンさながら働き続ける私に、明らかな違和感と抵抗感があったようです。それでも私が日本にいる時は、近くでコミュニケーションを取ることができるので、母のガス抜きやケアもそれなりにしてまだ良かったのですが、最後まで反対だった海外赴任に私が行ってからは、ほとんど毎日のようにメールや電話で連絡がきて、「いかに孫が寂しい思いをしているか」「いかに自分達が孫の世話で大変な苦労をしているか」「母親なのに無責任すぎる」「あなたが海外に行かずに日本に居られればこんなことにはならなかった」「一体いつまでこんな状態を続けなければいけないのか、早く日本に帰ってきてほしい」というようなことを言われ続けるようになりました。

息子がもし手のかからないタイプの子供であったなら、もう少し違ったかもしれません。ですが息子は生まれつき大変手がかかり、小学校に入ってからは発達障害と診断、学校やお稽古事、お友達などありとあらゆる所で問題行動を起こしては、両親は事態収拾に駆け回るという日々を送っていたのです。70を過ぎた両親にとっては、体力的にも、「人様に迷惑をかけてはいけない」と強く思っている世代としてもこれは大変なストレスで、心身ともに限界が訪れており、悲鳴のような報告が毎日私の所に届いていました。

そんな中で私が出会った新しい「前世の記憶」とは。次回に続きます!

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