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絶世の美女・万葉歌人『額田王』は、ペルシャ系美人 1.ローマ帝国(大秦)

 ローマ帝国は、中国では大秦と記されている(うずまさ・太秦にも…)。中国の史書に初めて著されたのは後漢・和帝の永元九年(西暦97年)の記事である。これは、西域都護が使者を大秦に派遣したというものである。この使者はシリアにまでは至ったらしい。シリアと言えば現イスラエルの北方に当たる。この後、ローマに行こうとしたが断念したそうである。

二世紀ローマ帝国(大秦)


 大秦について中国の史書には
「大秦には普段王はいず、国に災難があった場合には優れた人物を選んで王とする。災難が終われば王は解雇されるが王はそれを恨まない」
との記述があり、【共和制ローマの独裁官(dictator)】に相当している。
 このように少なくとも古代2世紀頃からローマ帝国と中国の間には外交関係が樹立していたようである。下図は、18世紀の百科事典『古今図書集成』に描かれた大秦國の挿絵である。

大秦國の挿絵

 後、中国の五胡十六国時代には(前秦)(351年~394年)が建国される。苻健は352年に皇帝に即位したが、当時の前秦はまだ小国であった。354年東晋の征西大将軍を撃退し、これを機に勢力を拡大した。以後、前秦は後趙滅亡後の華北を前燕と東西を二分する勢力へと成長した。苻健の死後、第2代皇帝となった三男の符生は356年に前涼を服属させ、勢力を拡大した。
 下図は全盛期の前秦の勢力を表している(ピンク部分)が西は西域から東は朝鮮半島にまで及んでいる。

前秦の最盛期

すなわち、4世紀の後半には西アジアから朝鮮半島に至る大文化圏が形成されている。
 この頃、前秦では、皇帝と称した。第3代皇帝として即位した苻堅は大秦天王と称したし、この年を皇始と建元した。後、秦の始皇帝も登場したことはよく知られている通りである。
 以上からも古代ローマ帝国の政治とも密接な関係を持つことが理解される。
 これは新羅にも見られるもので、天王や天皇という呼称にもつなっがていると言われる。
 新羅は、、503年に「新羅」を正式な国号としたが、
  ★『羅』とは、(羅: Imperium Romanum)は、古代ローマの共和制の
    時代以降を指す言葉である
これを考慮すると、
  ★★『新羅』は、New Imperium Romanum
を表している。
 このことは、新羅で発掘された多くのものがローマ文化の直接的影響を受けていることからも明らかである。
 古代ローマ帝国、前秦のシリアなどの西アジア領域を含む壮大な文化圏の存在は民や民族の交流があったのも自然であろう。
 本章の結論は、ペルシャやシリア、遠くはローマまで中国そして朝鮮半島(新羅が存在した)まで人々の交流があった、と言う事実である。

新羅の古墳で出土したローマン・グラス

上の写真に見るローマ時代のガラス製品は日本国内でも出土している。
 天武天皇の時代に日本と新羅には非常に密接な関係があり、新羅からの入国者も多いことが記録に残されている(日本書紀)。
 ★★西アジア(ペルシャなど)~日本には密接な人的交流が存在★★

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