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障がい者とおどる。

障がい者も健常者も一緒になって踊るという文化活動を続けています。
愛Wishプロジェクトと名付けたその活動は、資金集めにはじまって、制作、脚本に脚色、振付に演出、舞台監督に衣装制作等々の、地を這うような地道な作業の繰り返しで、投げ出したくなるような気持ちが、常に生きています。
本番舞台の観客の拍手や歓声、出演者や関係者の笑顔で、達成感を感じる時がありますが、一年間の活力を維持するには、それだけでは難しいと感じることも多いです。

 それが、世界中がパンデミックとなり、突然、舞台が中止となりました。皆で集まる稽古そのものも出来なくなりました。いそがしかった頭の中が、いきなり真っ白になりました。
そうして二か月ほどすると、上がったことがない血圧が上がり、肉体的にも精神的にもおかしくなっていきました。
 これはいけないと、朝のウォーキングをはじめ、全く止まっていた活動も、テレワークでの稽古をスタートさせ、テレワークでの映像作品発表が決定し、心も体も動き始めると、スルスルと血圧も下がり、体調も良くなっていきました。
 毎年、じんましんが出るくらいのストレスを伴うこの活動ですが、コロナ禍で両手両足が奪われるような目に合うと、毎年の大変な作業であったとしても、ずいぶんと人生に活力を与えていたのだなと気づかされます。
 
障がい者の文化活動のシンポジウムに呼ばれたり、毎年の自治体などへの協力を呼びかけるプレゼンの際に、よくお話しするのですが、この全くの草の根的な活動をしたことによって、体験することが出来た、いくつかのエピソードがあります。
それをお話しします。

≪ エピソード1 ≫
はじめて、障がい者と呼べる方々と舞台に立ったのは、1984年 所属していた、劇団はぐるまの舞台「安寿と厨子王」、岐阜ろう劇団いぶきとの合同公演でした。一緒に舞台に立たせていただき、彼らの見事な表現力に驚きました。
十代の頃から踊ることが好きで、その頃、既に舞台のダンスの振付をしていました。
それを知った、ろう劇団代表から、翌年の1985年に岐阜市文化センターで全国の聴覚障害者の大会でろう者たちが踊る、ダンスの振付と指導をしてほしいと言われました。
ろう者含む男女30名ほどで稽古が始まると、突然、
「いつもより音楽のスピードが遅い」
と、ろう者の何名かに同時に指摘を受け、驚きました。
 当時は、音源はカセットテープをかけての練習です。
テープの状態と、再生機の状態で、微妙に音楽のテンポが変わっていたのを、健常者は誰も気づかないのに、彼らは直ちに気づいて指摘したのです。
それから28年たって、ろう学校でダンス指導をし、学校内で発表する機会がありました。
その時、教師から
「この子たちにはリズムがないですから」
と言われ驚きました。彼らには健常者以上のリズムをキャッチする力があるということを知っていたからです。
彼らは、周りの踊る人を見たり、あるいは、体で感じる響きで、リズムさえ確認できれば、いくらでも一緒に踊ることが出来ます。
また、障がいは違うけれど、自閉症の子も、はじめて聞いて踊った曲のメロディを、その日のうちにダンスにあわせて、直ちに歌い始めるときがあります。
一~二回聞いて、踊っただけなのに、その記憶力のすごさに驚きます。
映画「レインマン」のダンスティ・ホフマンのように、特別な、何かが研ぎ澄まされている、という事があるのだと思っています。

≪ エピソード2 ≫
愛Wishプロジェクトのはじまりは、フラッシュモブでろう者たちと一緒に駅前で踊ったことでした。
それから、色々とご縁を頂き、舞台でも発表するようになりました。はじめてのワンマンライブは、廃校になっていた飛騨小坂の湯屋小学校の体育館でした。
地元の方々のあたたかな、強力なおもてなしを受けての発表でした。
その時、生まれてはじめてダンスに挑戦した、70代半ばのC子さんがいました。はじめてのダンスレッスン終了後、彼女は極端な筋肉痛が出て、トイレに腰掛けることも出来ませんでした。
それでもがんばって、毎回稽古に参加して、本番舞台に立ちました。
この日の舞台には、ろう者の方々が何名もかけつけ、共に踊ってくれました。
終演後C子さんから嬉しいメールが届きました。
「わたし、今まであの人たちのことをかわいそうな人たちと思っていました。でも違うんですね。明るく生きているんですね。私たちと一緒なんですね」
と。
その半年後、同じ地域の特別支援学校の体育館で再び、支援学校の生徒の皆さんも交えての舞台発表がありました。
C子さんは、稽古を重ね、この日の舞台にも出演しました。
生まれて二回目の、大勢の観客の前でのダンス披露です。本番前、緊張で泣き出したくなるような気分の時、半年前、一緒に舞台に立っていた、ろう者の男性が、緊張するC子さんに気付き、彼女にむかって、笑顔と手話で、
「がんばって」
とやってくれたそうです。C子さんはとてもうれしかったのだそうです。
「私は励ますつもりで参加しているのに、いつも励まされているのは私です」
と、終演後、彼女からメールが届きました。

≪ エピソード3 ≫
特別支援学校の体育館で発表したのは、11月でした。温度調整が出来ない生徒さんがいるので、体育館にも暖房設備がありますが、床は冷たいです。
その体育館の床に、舞台のダンス練習中も、本番舞台の時も、寝かされている女の子がいました。
練習中も本番中も、
「あ~」
とか
「う~」
とか、声を出して見えました。踊れないし、手を振ることも出来ないようでした。

稽古中も本番中もバタバタといろいろなことをしていましたから、床に寝かされた彼女のことを特に気に掛けることはなく、舞台の幕は下りました。
終演後、特別支援学校の教頭からメールが届きました。
「嬉しい手紙が届きましたよ。」
と、その子のお母さんからの手紙の一部を打ち込んだものでした。
『彼女をダンスイベントに参加させていただき、ありがとうございました。
彼女がとても沸いているのがわかります。』
と。
皆が声をあげて盛り上がっていた空気を、彼女は、ちゃんと受けとめてくれていたのです。
表面に出ている事だけで、相手の気持ちを判断してしまうことが、よくあります。
彼女たちが感動しているという事を、知っておかないといけないなと思いました。

≪ エピソード4 ≫
毎年様々な特別支援学校、聾学校にも通わせてもらっていますが、生徒の皆さんもいろいろです。生徒の半分以上が、自動車の普通免許を取りに行けるぐらいの学校もあれば、病院と併設になっていて、教師が病院内で授業を行うようなところもあります。
ある特別支援学校で、生まれつき、色素が作れない男の子がいました。まだ中学生ぐらいなのに、髪の毛も、まつげも、まゆげも真っ白で、顔も色素沈着なのか、シミがありました。学校の体育の授業の一環として、ダンスレッスンに伺うのですが、一回目、二回目と、こちらの目を見てくれることもなく、ダンスレッスンには参加しても、舞台には立たないと言っていました。
きっと今までいじめとかあったんだろうなと、勝手に推測していました。
それが三回目になると、こちらを見てくれるようになり、口角が少し上がるようになっていました。その日、その子の担当の教師から、
「こいつも今になって、舞台に出たいっていうんですよ」
と言われました。
嬉しかったです。
「いいよ。いいよ。一緒に出ようよ!」
とお伝えしました。
本番当日、出番を待つ彼は、野球帽を深くかぶって、椅子に隠れるような座り方でじっーと練習の出番を待っていました。

ところが、彼の出番の生演奏の曲がスタートすると、さっそうと帽子をとって、舞台に向って走り出し、踊り始めました。
それは、観客がいっぱい入った、本番舞台でも全く同じことでした。
踊り終わって照明が落ちる前に、彼に駆け寄りハイタッチをすると、嬉しそうに彼は笑いました。
今も、勇気が必要な時に、あの時の彼を思い出しています。

≪ エピソード5 ≫
岐阜の舞台、名古屋の舞台に、5歳の女の子がその子のご祖母と一緒に舞台に立ってくれました。オープニングにエンディング、合唱曲に途中の動物たちが死んでいくシーンまで。
踊りながら突然倒れたりするシーンもあったりで、その子のご祖母は、
「意味はわかってないと思うけど、稽古が本当に楽しいから喜んで来ています。」
と言ってくれていました。
岐阜公演、名古屋公演も終わって、しばらくして、その子のご祖母からメールが届きました。
女の子の保育園に障がい者たちが話に来てくれて、一緒に子供たちとゲームを楽しむ会があったそうです。
しかし、5歳の子供たちには、はじめてあった障がい者が衝撃だったらしく、みんな緊張して固まっていたそうです。
すると、一緒に踊った女の子が、
「大丈夫。怖くないよ」
と友達に言ったそうです。
そして障がい者の方々が、頑張って歩いたり、車椅子に乗っている姿を見て「すごいね!」
と話していたと。
保育士たちは、5歳児の女の子の言葉に涙が出たそうです。
この話がとても嬉しかったので、他の出演者の皆さんにもお話ししました。
すると、同じように、岐阜公演、名古屋公演で、一緒に舞台に立ってくれた69歳女性は、話の途中からボロボロと泣き出してしまわれました。
彼女には特別支援学校に通う高校三年生の孫がいます。
今回の舞台で彼女は、その孫と一緒に舞台に立って踊ってくれました。
終演後も孫と一緒に舞台に立てた喜びで感極まってみえました。
一緒に舞台に立った、5歳の女の子の言葉と行動に、特別な思いがあったのだと思います。


≪ エピソード6 ≫
共に舞台に立ったメンバーに、特別支援学校卒業生の女性がいました。
彼女は、ダンスの覚えがよく、とても素直に稽古に挑み、いきいきと踊っていました。舞台の最前列で踊ってもらいました。
ところが終演後、その彼女を知る方々から、異口同音の驚きの感想が届きました。
彼女は、いつも奇声を上げて、鞄を振り回して歩いている方だというのです。
それが、
「こんなに生き生きとダンスを覚えて、舞台で踊るなんて、驚きました」
と。
彼女が生まれてから、ご両親は離婚。彼女を育てていた父親は早くに病死。父方のご祖父母が彼女と暮らしていたのですが、そのご祖母もなくなって、今はご祖父と二人暮らしなのだそうです。
本番舞台の客席には、一人で座って、元気に踊る彼女を観ていたご祖父の背中がありました。

≪ 終わりに ≫
特別支援学校や、様々な福祉施設にダンスレッスンに行くと、ハイになって、ぐるぐる体を回転させる子や、いきなりバク転をする子、突然走り出して、机の上のパソコンを投げ落としてしまう方も居ます。
事故を起こしてはいけないので、担当の教師の方々や、施設のスタッフの方々が見守る中での練習をお願いしています。
また、心から楽しそうに踊っていた子たちが、次の稽古に行くと、赤い顔で天井を見つめたまま全く踊らなかったり、マットレスに丸く横たわったままだったり、部屋の隅でうずくまって動かなくなってしまっている・・なんて事が、よくあります。
しょうがないなと思っています。無理に踊らせることもしないし、また気分のいい時に踊りましょう、にしています。
練習中にいきいき踊っていても、本番はまるで立っているだけかもしれないし、どこかに走っていなくなっちゃうかもしれない。
それでも全然大丈夫です。と、学校の教諭の方々、施設のスタッフの方々、心配するご家族の方々にもお話しています。
ちゃんと踊ってほしいけれど、ちゃんと踊れなくても、いいんじゃないかと。
バレエをずっと踊っていた子が、舞台参加して、本番舞台の時に、障がい者の方々が全然踊れていないことに驚きながら、
「でも、すごく幸せそう」
と感激していました。
福祉関係の仕事をする方々は、障がい者が踊る姿を観て、
「本当にうれしい」
「私は、涙が出てしようがなかったです」
と、感想をくれます。
 大変だけど、毎年、心も体もワクワクとひとつになって、楽しむ時間が生きています。
 いつしか、たくさんの方々とのご縁が生まれています。

 最後に、愛Wishプロジェクトの活動は、大学や自治体、社団法人や中小企業、プロのダンサーやミュージシャン、イラストレーター、舞台関係者、様々な皆さんの力を毎年頂戴しています。
そして、たくさんの出演者の皆さん、ご家族の皆さん、会場に来てくださるお客様、全ての皆様、ありがとうございました。
幸せの青空が広がりますように。

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#発達障害 #ろう者 #聴覚障害 #ダンス #障害福祉課

※ ひたすら長い文章でごめんなさい。ナゴヤアーティストエイドで作った映像に、字幕がついていません。もし字幕が欲しいと思っている方がいたら、申し訳ないと思い、ここに掲載しました。

最後まで読んでくださり、感謝申し上げます。

愛Wishプロジェクト 代表 Mr.Takashima

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