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レビューとレポート第22号特集「削除された図式/THE SIX MAGNETS」 4 展覧会について 荒木佑介・半田晴子

 2020年8月8日(土)にArt Trace Galleryにて行われたアーティスト・トークを基に各アーティストが加筆修正し、半田が編集したものである。

半田:
 まず私からこの展覧会を企画した動機についてお話しします。それに対して当時の新京市と東京市においてどのような計画の元で都市計画が行われたのかを荒木さんにお話ししていただき、そこから展覧会の核心に話を繋げたいと思います。

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 小展示室に入って左手一面に、私が2019年3月に旅行で訪れたハルビンと長春の街並みのスナップ写真を展示しています。この旅行は展覧会を企画するきっかけになりました。この場所に行った時の直感と経験が動機になっています。

 私の父は満洲からの引揚者で、ハルビンで生まれて新京(長春)で10歳になる直前まで育ちました。私は父から聞いた話と現在のハルビン・長春がとても一致することに驚きを覚えました。またコンセプトとして引用しているエベネザー・ハワードの「明日の田園都市」には載らなかった、正に「削除された図式」の一つである「明日の衛星都市」という図版に注目しました。実はこの図式/図版が「明日の田園都市」には載っていないにも関わらず、見た目が印象的なためか何かと引用されていることに面白さを感じていました。そしてハルビン・長春の旅行の時の体験とこの図を見た時に、非常にリンクするところがあると感じました。それが展覧会構想の大元になった訳です。

 ハワードの三つの要素「町・いなか・町いなか」、この三つの磁石を基にハワードは都市計画を論じていますが、そこに新たに要素を加えてみようというのがこの展覧会の主旨です。新たな要素というのは、翻訳者の山形浩生さんの後書きから非常に影響を受けています。それをヒントに私なりの解釈をしました。一つは「水の供給」が削除されているということ、もう一つは「行政:俯瞰図」という章がまるまる没になっていることに注目しました。1902年にこの本が改題の上で再版されたのは、社会主義や共産主義やアナキズムの考えが広まった時期と重なります。当時のイギリスではこの本自体が土地を売るためのプロモーションのために書かれた一面があったので、宣伝には弊害があると考えられて没になったようです。それを受けて、じゃあ、あえてそれを加えて本来の意図通りにやったら面白いのではないか? と思ったのです。

 大展示室ではその考えをベースに作品の展示構成をしました。展示要素としての磁石はそれぞれ「田園・都市・境界線・流通・歴史(日本・植民地)」としました。小展示室はハルビン・長春のスナップショットが左手にある一方で中央に地図を置きました。地元の人が観光客用に当時の新京市の地図を勝手に復刻して売っていたので、それを展示しています。新京市地図の右隣は東京市の関東大震災後の復興記念のために作られた地図で現物です。これは荒木さんが今回展示してくださったもので、この2点を対比して置くことで展覧会のスタート地点にしようと考えています。また新京は日本の近代化について非常に分かりやすい事例だと思います。朝鮮半島もそうですが、満洲も当時の日本の近代化の実験場であったのだろうと思います。

 そこで私から荒木さんに伺いたいのは、私が見てきた当時の状況がそのまま街並みとして残っている新京(現在の長春)に対して東京はまた印象が全然異なるのは何故なのか? 面積など当然条件は異なるとは思うのですが、日本の近代化と直接関係のある開発であったにも関わらず、これだけ差が出てしまったのは非常に興味深いです。また現在の東京も当時のこの地図とは何か違う気がします。その辺の話を聞かせていただければと思います。

削除された図式40


荒木:
 荒木です。右側が1930(昭和5)年の東京市街地図になります。対して、左側が1940(康徳7)年(註1)の新京市街地図です。10年ほどの違いがありますが、ほぼ同じ時期に実行された都市計画の結果がこちらに並べてあります。これらを見ながらお話ししていこうと思います。
 こちらの東京市街地図は、関東大震災(1923年)から7年後、復興完成記念として東京日日新聞が発行したものになります。この時に作られた道が今も残っているため、今現在の東京はこの時作られたと言ってもいいでしょう。ざっくり結論から言ってしまうと、東京で本当にやりたかった計画がかつてありました。それは記録として残っているのですけど、様々な障害に遭い、当初の計画が実行されることはありませんでした。時の政治家の上層部の反対もあり、40億円の予算をつぎ込もうとしたけど、削りに削られて4億円まで減らされて、中途半端な形で都市計画が行われてしまった。対して、新京は計画を実行できた都市なので、地図を見ても分かる通り、整然とした街並みになっています。東京と新京、この二つの市街地図を見比べるとその違いは歴然としていますが、東京で実現しなかった都市計画と、新京で実行された都市計画を照らし合わせると、共通点がとても多いそうです。言い換えれば、新京の街並みを通して、かつて東京で本当にやりたかった都市計画を垣間見ることができる。そういうふうに捉えることができるかもしれません。
 僕が調べた限りですが、日本の都市計画は大きく分けて二つの流れがあります。一つは内務省主導による地方改良運動、農村復興を中心としたもの。なぜ地方改良運動をする必要があったのかというと、明治維新以降の近代化の流れの中で、日清戦争(1895年)から始まる外征の時代がやって来ます。1905年に日露戦争が起きますが、この日露戦争が日本の近代化のターニングポイントになります。というのも、日露戦争後に大不況が起きます。戦費が国家予算の五倍ほど掛かり、当てにしていた賠償金もほとんど得られなかった。結果、国庫が空になり、多くの農村が疲弊していった。農村を救済しないといけない、どうすればいいかというタイミングで、ハワードの『明日の田園都市』が輸入された。田園都市という名称はおそらくこのあたりの影響を受けています。『明日の田園都市』は原文だと“Garden・City”なので、翻訳すると「庭園都市」が妥当な訳になるのですけど、何故か田園都市と訳されている。二宮尊徳の報徳思想を下地にして、ハワードの都市計画を輸入したとも言われており、それが田園都市という名称に表れているのではないか。変な話なんですよね。田園都市とはいえ都市には変わりないはずなのに、都市ではなく農村が対象とされていたんです。
 対して、もう一つの大きな流れに、住宅供給問題があります。代表的なものに、渋沢栄一が創設した「田園都市株式会社」があります。今で言う東急沿線を始めとする、鉄道会社を中心とした駅前開発です。ここで気が付くのは、農村復興にせよ、住宅供給問題にせよ、どちらもハワードの田園都市構想とは似て非なるものになっているということです。ハワードの場合ですと、工場があって、住宅があって、公園があって、学校があって、というふうに町全体の話になっているのですけど、そうはなっていない。ハワードの田園都市構想の輸入はおそらく失敗している。

半田:
 概念が輸入された後に変質したのでしょうか。何か日本のシュルレアリスムみたいですね。

荒木:
 たぶんそういう感じなんですよ。加えて、当時イギリスを視察した人があまり深く調査をしなかったことも影響していると思います。

半田:
 モデルは輸入しているけれども実体は伴っていないと。

荒木:
 味付け程度に持ってきた感じだと思います。当時の日本の事情がありましたから。そのフィルターがかかってしまっている。

半田:
 あと、今回ハワードを使ったきっかけは国を選ばない、要するに国家のイデオロギーに関係なく各国それぞれが取り入れて都市計画を行おうとしたことがとても興味深かったからです。土木技術もそうですが、イデオロギーとは別に技術的にテクノロジーとして優れていれば使おうという考えの傾向に注目しました。つまり技術の方に注目すると「雑音」が入らないため見えてくるものがあるのではないか? と思い注目したところがあります。その一方で今の話にもあるように、国の事情によって実際に想定された田園都市の循環していくようなイメージ、つまり小さな地方都市一つで成り立つように考えられたものが実は住宅供給のみの目的になっていたり、すり替えられて機能しなくなっています。そしてさらに土地のイデオロギーが入り込んで機能不全に陥っているところが印象的だなと思いました。あとはこの地図が当時の実体とは異なるということですよね?

荒木:
 こちらの東京市街地図を見ますと、東京市が薄い緑の線で囲まれていることが分かります。これは緑地帯にする予定だった場所なんですが、当時も今もそうはなっていない。緑地帯をいかに設けるかが、都市計画の重要なポイントの一つなのですが、例えば、一つの区に対してその周囲を緑地帯で囲むという構想もありました。緑地帯は人口膨張を抑えるために設けるものですが、防災としての機能も持ち合わせます。関東大震災後の都市計画ではこの緑地帯がほとんど実現されなかった。そして、1937年に防空法が公布されたことにより、田園都市構想を始めとする、あらゆる都市計画の考えが全て、防災都市計画に吸収されていきます。もし、関東大震災後の都市計画が大きく実現していたら、東京大空襲の被害はだいぶ抑えられていたのではないか。昭和天皇はそれについて言及したことがあります。

半田:
 それがあの(大展示室の)作品ですね。言葉が書いてある緑の作品です。

荒木:
 結局、今ある緑地帯は東京の周囲ではなく、真ん中(皇居)だけだよね、というオチもあるんですけどね。それでいうと話は少し変わりますが、今でこそ皇居は東京の中心という感じですけど、1930年の東京市街地図を見ても分かるように、皇居は西側にあるものという認識が一般的だったそうです。東京の市街地は皇居の東側。

半田:
 そういえば来場者で「こっち(目黒区)は江戸っ子じゃない」と言っていた人がいました。

荒木:
 ここ(両国)は江戸っ子ですね。地図上だと、まさにこのあたりですけど。緑地帯で囲むはずがそうはならなかった。そのあたりの話をすると長くなってしまうのですが。

半田:
 この地図と新聞記事は発行時期が近いのですか?

削除された図式41


荒木:
 1930年の3月1日と3月20日ですね。3週間くらいしか変わらない。東京市街地図が発行された同じ時期の新聞をこちらに展示していますが、「復興計画事業史」とありまして、様々な成果が書き並べてあります。ここにいるのが計画の中心人物である後藤新平ですけど、まぁ、なんだろう、「空前絶後」と見出しにありますけど、予算を10分の1まで減らされて、このように言われてしまうと、後藤新平もどう思ったのか良く分からないですけどね。

半田:
 内容自体は実際とは全く異なるのですか?

荒木:
 データは多分合っているけど、見出しは過剰かなという。昭和5年ですからきな臭い時代ではあったでしょうね。
 あと(新聞記事の)横にあるこの写真、おそらく60年くらい前の名古屋市庁舎の写真なんですが、東京に対して名古屋は都市計画が上手くいった土地の一つです。それは、当時の名古屋市長が強いリーダーシップを発揮して、意欲的に計画を実行した成果が出たからです。名古屋は広い道が印象的ですが、あれは強制疎開を利用して作られたものです。疎開という言葉は本来、建物疎開のことを指します。建物疎開というのは火災による延焼拡大を防ぐために建物を強制的に壊すことです。両国駅周辺も壊されたらしいですよ。延焼拡大を防ぐために建物を壊して道を広げ、その広くなった道を戦後利用して作られたものが100m道路を始めとする名古屋の広い道です。東京の場合、そこにバラックが沢山建ってしまったせいと、あと、都市計画自体がGHQの反対にあった。敗戦国にそんな壮大な計画は必要ないとか、いちゃもんをつけられたらしいのですが。東京に対して名古屋は上手くいったという。

半田:
 名古屋は小さな京都という印象でとても道が分かりやすいですね。

荒木:
 分かりやすいですね。碁盤の目になっていますし、どちらも都市機能移転によってできた街なので、計画都市としての成り立ちを背景に持ちます。

半田:
 都市計画一つ取っても、計画を綿密に立てながらも有機的にリアルに都市は変化してきたということだと思います。この展覧会自体も出品者それぞれにキーワードを事前に伝えておいて、現場で具体的に展示を構成する形をとりました。実は計画されたものと有機的なものとの関わりが私の中ではテーマの一つになっていて、都市計画の実例にとても表れていると思うのです。非常に綿密に計画されながらも予算の獲得など様々な葛藤があり、そして実際に造り始めると生々しい人々の生活の営みが関係してくる。実はこの展示会場ではそれを再現できたらという思いもありました。従来のキュレーターとアーティストとの関係ではなくて、アーティスト同士の協働によって展示空間を作れないかと思ったのです。そのため、展示作業自体が「制作」でもあったと思っています。それでは、今日はどうもありがとうございました。


註1:満洲国の元号。満洲国が帝政に移行した1934年を康徳元年とする。1945年の満洲国崩壊まで使用された。


トップ画像:半田晴子
作品・展示会場撮影:田巻海

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削除された図式/THE SIX MAGNETS
企画者:半田晴子
参加作家:荒木佑介、田巻 海、半田晴子、平間貴大、三輪彩子、室井良輔
会期:2020年8月6日(木) – 8月24日(月)
会場:Art Trace Gallery
https://www.gallery.arttrace.org/202008-handa.html

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レビューとレポート第22号特集「削除された図式/THE SIX MAGNETS」
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レビューとレポート第22号(2021年3月)