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レビューとレポート第22号特集「削除された図式/THE SIX MAGNETS」 2 「日本・現代・美術」の明日は何処に?〜「削除された図式/THE SIX MAGNETS」レポート  福居伸宏

 2020年は、新型コロナウイルスの蔓延という予期せぬ出来事によって、多くの展覧会が延期あるいは中止を余儀なくされるなど、わが国の現代美術の世界も2011年の東日本大震災以来の大混乱に襲われることとなりました。緊急事態宣言の発令・解除を経てもなお、感染拡大防止措置の必要性などもあり、東京都内の美術館やギャラリーでは自主的な入場制限や事前予約などの対策がとられ、9年前の震災とはまた異なる、眼には見えない奇妙な空気感に包まれていたように記憶しています。そうしたいつもとは違った“新しい日常”が日本社会を覆ってしまったさなか、両国のArt Trace Galleryを訪れました。

 今回は、荒木佑介、田巻海、半田晴子、平間貴大、三輪彩子、室井良輔の6人による展覧会「削除された図式/THE SIX MAGNETS」の模様をレポートします。

 本来であれば「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会」、いわゆる2020年東京五輪が開催されるはずの7月・8月でしたが、新型コロナによってこの挙国一致の一大イベントは2021年に延期され、都心部は静かな夏を迎えていました。“挙国一致”とはなかなかに時代錯誤な硬い言いまわしです。戦前か何かのようです。しかし、新型コロナ危機の先行きの見えなさ、度重なる政権与党および都政の的を射ない施策の連発もあり、その東京五輪自体も「Tokyoインパール2020」などと、先の大戦における無謀な作戦立案・遂行と敗走の比喩によって揶揄されるようになっていました。第二次世界大戦中の大政翼賛会のスローガンを借りれば「進め一億火の玉だ」状態です。ただ、それに比して、国民感情と為政者の思惑との溝は日を追うごとに広がっていった……という印象がありました。

 本展「削除された図式/THE SIX MAGNETS」は、企画者である半田が現在の中国東北部、かつて日本が植民地として“新しい国家”創建を企図した「満洲国」を訪れたことをきっかけに構想された展覧会だということです。会場のハンドアウトに記された文書を読むと、満洲国は半田の父が生まれ育った場所であり、その首都・新京(現在の長春)で祖父が国家建設に関わり挫折した、ゆかりの地であるとのこと。先の戦争から70年以上の時を経た今も、長春は新京時代の都市構造をそのまま残しており、それを目の当たりにした経験がインスピレーションの源になっているのだといいます。そして、新京の都市計画とも関係の深い近代都市計画の祖の一人であるエベネザー・ハワード(Ebenezer Howard, 1850-1928年)の古典的著作『明日の田園都市』をメタフォリカル、アナロジカル、アレゴリカルに援用することによって、「かつて・あった・その・都市」と「いま・ここに・ある・都市」との関係性を可視化する試みが本展のコンセプトである、といったことが示されていました。

 展覧会場に入ると、すぐの左手には半田の写真作品が掲げられており、ハンドアウトのテキストからの類推によって、それが本展のキーとなるものであることが理解されます。その作品はハワードの日本語訳からアプロプリエイト——再撮影(re-photo)もしくはスキャニング——されたダイアグラムであり、今回の6人の作家の結びつきを示唆するかのような図像ですが、イメージの一部分がスリットのように細かく縦に引き裂かれ短冊状に反復——コピー&ペースト——されており、目指されるべき理念である雛形、理想とされるイマジナリーな像が、今風の言葉でいえば、“グリッチ”状に毀損されてしまっています。過去の半田の作品を知る方であれば、それはこれまでの手法を踏襲したものであることがおわかりでしょうが、今回は以前よりもさらに、コンセプト——作品のビジュアルそれ自体のみでは眼には映ることのない概念——のほうに重心が置かれているように、私には感じられました。

 冒頭の半田の作品に隣接して、田巻海の木製パネルに写真をプリントした三点組の大きな作品(都市空間・建築空間の片隅をソリッドにとらえたイメージが擬似パノラマ的に繋ぎ止められている。一見、絹目調のプリントにも見えるが木製パネルに直接印画されているため、写真図像のイマジナリーな空間性と木目がうっすらと目に映る支持体の肌理のフィジカルな物質性とのあいだの微妙な揺らぎと乖離とが生まれている)、室井良輔の実物大の洗面化粧台(本物の什器・素材によって作られており、その裏側の給排水用の塩ビ管部分が剥き出しになって伸びている。マルセル・デュシャンからロバート・ゴーバーまでを結ぶレディメイドにおける“ある系譜”のほか、さまざまな美術史上のコンテクストも仄見える。鏡も洗面台も実際に使用できる。そこには、手洗い等、新型コロナ以降の生活様式や身体への意識の変容に対する作家の意図が?)が壁に沿って続き、平間貴大のスピーカーを仕込んだ音響彫刻作品(ボール紙の筒、Amazonの流通用段ボール箱、塩ビ管等が使用されている。ネット通販等で手に入るありあわせの材料によって制作されているように見える。スピーカーからは電気的・電子的なノイズが静かに響いてくる。私は実見できなかったものの作品を使ったライヴパフォーマンスも行われたとのこと)が床置きで配され、会場奥の空間に観者を導きます。

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 ここに至って、本展は単に6人の作家で空間を融通し分け合って構成された、よくあるタイプの“志のない”グループ展とは、まったく異なった展観となっていることに気づかされます。とりわけ、コレクティヴ(Artist Collective)の乱立によって、わが国で近年よく見かけるようになった、仲間内の寄り合い的、顔見せ興業的な、かつてのサロンや画壇の時代に後戻りしたような定期展的な色彩は本展からは注意深くぬぐい去られており、非常に引き締まった、見ようによっては素っ気なくも感じられたり、ミニマルとも感じられる空間構成となっていることが目を引きます。それは比喩的な意味はもちろんのこと、リテラルな意味においても、各作家の作品の色彩が限定されていた——つまり、本展の概念的な支柱となる「田園都市」の建築的・空間的な構成要素の中心となるであろう色味、黒、グレー、シルバー、白、ベージュ、茶色、グリーン……そして差し色としてのわずかな赤みのみが観者の目に入ってくる——こともあるでしょう。しかし、最も重要なのは、展示空間における作品の“置き位置”の差配によって、各作家のピースを編み込むように構成し、作品相互のネットワークを重視しているように思われる点です。

 奥に進むと、左手には再び田巻の三幅対の写真作品(こちらは建築の内部空間を捉えたものの複合のように思われる)が現れ、その手前には荒木佑介による満洲国新京の俯瞰図を人工芝に彫り込んだ舞台状の作品(作家によればミステリー・サークル的な意匠を通して、ハワードのロンドン、皇国日本の植民地である満洲国首都・新京、そして東京を結び合わせ、考察するものであるとのこと)が設置されています。そして最奥部の壁には、同じく荒木による壁貼りの作品(舞台状の作品と対応するかたちの掲示物。緑色の背景色に新京の俯瞰図と3つの引用文が印刷されている。文面は以下、関東大震災後の復興計画にまつわる昭和天皇の言葉/オリンピック・万博などナショナルな国家事業と都市計画についての文書/中国戦線を指揮した米陸軍指揮官アルバート・ウェデマイヤーと満洲国の都市計画に関する文書)が掲げられ、その下方に設えられた小ぶりの展示棚には鑑蔵印の模型と「THE LAST EMPEROR」と記された木製パネルが配されています。また、その右手やや低い位置には、東京駅で握手する昭和天皇と満洲国皇帝・溥儀の写真(作品リストには昭和十五年六月二十六日とある)が展示されている様子が目を引きます。荒木の作品もまた、半田の冒頭の作品同様に展示全体のねらいを浮かび上がらせる鍵となる機能を担っていることが直感されますが、視覚的には非常にあからさまな表象である反面、どこか謎めいているとともに、わが国の暗い過去へと観者をいざないます。

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 以上のように、ここまでの展示作品を見る過程で、グループ展というよりは、たとえばハイアートの第一線で活躍しているヨーロッパ系のコンセプチュアル・アーティストの個展におけるインスタレーションを見ているかのような印象が、私のなかに立ち上がってきます。私自身もアーティストであり、どちらかといえばそういった、《個々の展示作品が響き合うことで異なる何かを観者に伝達する》ような展示構成を心がけてきたこともあって、造形感覚的にも私の価値基準と非常にフィットする手法が採られていると感じました。

 荒木の一群の作品から隣に視線を移すと、三輪彩子の「区画整理の夢のスケッチ」という複数のモノクロームのペインティング(木製パネルに描かれた開発途上のような風景。朧な筆致がそこに建てられるであろう街区の姿、あるいはすでに失われてしまい荒れ野となったこの地にあった、かつてのそれ……を幻視させもする。とりわけ床置きで壁に立て掛けた赤いピースが効いている)があり、荒木の舞台状の作品と並ぶかたちでフロア中央には建築内装の仕上げ前の壁面を模したかのようなキャスター付きの彫刻(木製パネルに描いた厚塗りのペインティングを蝶番でつなぎとめたものにも見える。その色彩を含め、いわゆる彫刻ともペインティングとも言い難い宙吊りにされたような仕上げ。ゆえに静止した今ここの“仮止めの時間”からの事前/事後なども想起される。躯体があらわな裏面には赤いスプレー痕あり)が配されています。

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 その右手には、改めて半田の写真作品(戦時中のプロパガンダ誌『FRONT』の満洲特集号からの引用をコピー&ペーストで反復し本展冒頭の作品のように仕上げたもの2点を並べ本の見開きのように模したもの、現在の長春を撮影した写真をグリッド状にタイル配置したモノクロームのコラージュ、『明日の田園都市』所収のダイアグラムを冒頭の作品同様に仕上げたものを2点)、手前の壁ぎわの床には平間の塩ビ管の音響彫刻が直立して並び、スピーカーから流れるノイズのかすかな律動が聴覚を刺激してきます。見上げると上方の天井近く、梁のあたりには室井作の「神棚としての建築模型」が配されており、遠目にはそれが“本物”なのか“偽物”なのかは判然とはしないものの、日本人の生活習俗はもちろんのこと、先ほどの荒木作品の昭和天皇の扱いとの対比なども意識されてきます。神棚・としての・建築・模型?日本・田園構想(見立て)・都市・表象(美術)???

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 Art Trace Galleryのメインの展示空間を抜け、受付とショップ脇のサブ空間に入ると、そこには半田による現在の長春のカラースナップ写真複数(ここまでの色彩の抑制に比して空の青が目に付く)、2枚の大判地図「新京市街地図」(水色がかった緑)と「東京市街地図 昭和五年三月十五日」(緑地は緑色に着彩されているものの、皇居ほか御用地は着彩されておらずその部分における白地の広大さが目立つ)、荒木による古新聞・古写真・鑑蔵印の印影を使った3点のピース(これまたメインの空間に配された作品同様に具体性と抽象性が同居しており、観者をふたたび過去へといざなう。また、1960年代以降のコンセプチュアル・アートにおけるオーセンティックなマナーにも連なる展観となっている)が並んでいます。


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 企画者である半田によれば、本展の開催までに何度かの作家ミーティングを経て展覧会の構想を練り上げていったものの、実際の空間構成については、作品の搬入設置期間に試行錯誤しながら決定していったとのこと。新型コロナウイルスの蔓延もあって、その舞台裏にはいろいろと苦労もあったようですが、ある程度流動性を持たせながら準備を進めていったのが功を奏したようです。しかし、先にも述べたように、一人のコンセプチュアル・アーティストが練り上げた個展のようにも見える充実した展観であり(折しも大阪の国立国際美術館では、ヤン・ヴォーの個展「ヤン・ヴォー ーォヴ・ンヤ」が開催されていた最中でした)、もし複数の作家によるグループ展であっても、美術館(public institution)のハウス・キュレーター(いわゆる日本の学芸員ではなく)がつくるような複雑で奥行きのある展示内容になっている一方で、やはりこういった展示は、わが日本の現代美術(現代アート)の歩んできた奇妙に捻れた歴史や、その場当たり的とも考えられなくもない変遷・変転、この10年ばかりの流通出版物・定期刊行物における国内美術の潮流や流行現象を考慮するとマイナーな営みになるのかもしれず、であればこそ逆に「6人のアーティストたちによる現状に対する意思表示」といった側面をもつものの、SNS時代の蛸壺化・島宇宙化した閉じた情況、その一方で物量的なスペクタクルやインスタントな視覚的“映え”——無際限の“広がり”への欲望——がむき出しに同居する現在("In the future, everyone will be world-famous for 15 minutes."といったアンディ・ウォーホルの名言も思い出す)への挑戦・挑発としてどこまでのエフェクトが期待できるかというと、本展のスタイルに私自身も共感するだけに、やや心配にもなってきます(そもそも私が本稿の執筆依頼を承知したのは、そのこともあってのことでした)。

 再びハンドアウトに目を戻すと、本展タイトルの前半部分「削除された図式」とは、エベネザー・ハワード『明日の田園都市』の改訂版から削除された「行政:俯瞰図」という章と巻末に収録されていた「補遺:水の供給」の2つを意味しているとのことです。前者は都市を統べる統治機構とその概念的かつ物理的な全体図であり、上(上空)からの視線を示唆し、後者は都市を維持するインフラのひとつである水道、さらにいえば下部構造、下方(地べた、土台あるいは地下)にあり市民の暮らしを支えているものの、ふだんは意識されることなく不可視化されているものを示唆しているように思われます。ハワードがそれらを削除したその意図・理由は、展示を見ただけでは必ずしも明らかにはなりませんが、戦後社会の自由主義、民主主義的な価値観にとっては不都合な事柄——たとえば為政者による寡頭制的価値観や、反動的強権的であったり全体主義的であったりするような理念——がそこには存在したのかもしれません。であるとすれば、それもまた今日の先進各国における右派勢力の台頭により生じている、近代西欧由来の理念への疑い、近代民主主義の衰退とも繋がってくるトピックです。とりわけ、新型コロナウイルス対応にもしくじり続けている「Tokyoインパール2020」下の日本においては。ともあれ、「削除された図式」というタイトルは、作品を通して視覚と概念を揺さぶることを企図した本展にふさわしいものだと言えるでしょう。

 他方、本展タイトルのスラッシュ以降の部分「THE SIX MAGNETS」は、“町・いなか・町いなか”が3つの磁石となることによる都市計画というエベネザー・ハワード『明日の田園都市』のコンセプトを手がかりに、6名のアーティストを“「6つの磁石」として置く”ということを意味しています。その6つとは、ハンドアウトによれば、「田園・都市・境界線・流通・歴史(日本・植民地)」であるといいます。ただ、私の見たところでは、その6つが必ずしも6人の作家に、あるいは展示ピース個々に、一対一対応で固定的にあてはまるわけではなく、その部分はもう少し入り組んだ構造となっているように思いました。たとえばある展示ピースを見ているときにそれが「田園」だと感じられたとき、他のあるピースが「都市」だと感じられたとして、しばらく見ているうちにその「田園」だと感じられたピースには「境界線」の要素もあるという印象が立ち上がってきたりもする。すると、「都市」だと感じられていた他のピースには「流通」や「植民地」の要素もあるようにこちらの印象も変化する……といった具合に、観者が展示空間内で身体を動かす、視線を動かすたびに新しい経験と感触が訪れ、その蓄積が展覧会総体のコンセプトを指し示し、浮かび上がらせてくるというふうなかたちです。

 6人のアーティストの六者六様の作品が絡み合う視覚的かつ概念的な関係性の網目、その動的なネットワーク——。「6つの磁石」の話に引きつけて考えてみれば、それは作品相互を結ぶ不可視の磁力線だとみることもできるでしょう。そして、それを今日の都市環境、情報環境の重要なインフラである電力によるもの、つまり電磁石(平間作品をリテラルに支えているもの)だと考えてみれば、S極/N極、マグネットのプラス/マイナスは電流の向きによって入れ替わるわけで、そのネットワークはより複雑なものとなるでしょう。

 目には見えないけれど確かに存在するもの、斥力と引力、それを生み出す磁場を想像すること。それは、このようなタイプの展示を見て読み解いていく愉しみであるとともに(市民が自由に芸術作品を味わえるようになったのも、近代西欧由来の理念があればこそ、それがわが国にも曲がりなりにもインストールされていればこそです)、本展においては国家や権力といったものの政治的な力が、社会の隅々に、都市のあらゆる構成要素にまで及んでいることを観者に感得させ、相反する感覚が行き交うような、いくぶんアンビバレントでもある“ビターな感情”を生じさせます。ただしそれは、こうした展示の主題を、我が事であると引き受ける構えを持つことができた場合においてのみです。あくまでも他人事だということであれば、そうした感覚・感情は生じようはずもありません。

 本展の作品群が、単なる否定性に貫かれたものであり、皮相的な批判やアイロニー、ポジション取りや遊戯的な手続き、個人的なこだわりやフェティシュに終始するのであれば、それはそれで二十世紀前衛以来の長い長い伝統や循環史観、ノスタルジーに寄り掛かるものになるのでしょう。しかし、荒木佑介、田巻海、半田晴子、平間貴大、三輪彩子、室井良輔、この6人の作家が集まったことによって生まれた相互作用により、そこから先の「日本・現代・美術」のありかたが幻視される、もしそれが言い過ぎなのであれば今後について大いに考えうる、稀有なグループ展になっていると私には感じられました。


 追記:本稿を「レビュー」とせず「レポート」としたのは、本展をいわゆる「批評」のようにまとめるには構成要素についてのさらなる詳細なリサーチと検討が必要であり、それは現状ではやや手に余ると判断したためです。また、ひょっとすると本展の空間構成・作品配置のバランスは偶然が作用した部分も大いにあるのかもしれず、クリティカル・エッセイとしての飛躍や宙返り的芸当、レトリックを通して、特定の結論に落とし込んだり言い切ってしまって良いのかどうかという迷いもありました。そもそも展覧会のアーカイヴとしての機能を持たせたいという依頼者の意向もあり、具体的な記述と実際に展示を体験した時点で感じたことを中心にまとめました。
 とても評判だったという国立国際美術館のヤン・ヴォー展を私は見逃してしまいましたが(海外の美術館等でのコレクション展やグループ展、アートフェア等で作品は実見している)、少し心配しているのは、こうしたコンセプチュアルなタイプの展示が“白樺派以来の日本問題”と同様に、単なる“格好の良い”“舶来もの”のスタイルとしてのみ国内で流行したりしないか、といったことです。わたし・たちは・いいかげん・かわって・いかなければ・ならない、と思っています。(2021年02月28日記)


福居伸宏(アーティスト、291 workshop主宰)
http://fknb291.info/
https://www.facebook.com/291ws/

トップ画像:半田晴子
展示会場撮影:田巻海

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「削除された図式/THE SIX MAGNETS」
企画者:半田晴子
参加作家:荒木佑介、田巻 海、半田晴子、平間貴大、三輪彩子、室井良輔
会期:2020年8月6日(木) – 8月24日(月)
会場:Art Trace Gallery
http://www.gallery.arttrace.org/202008-handa.html
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レビューとレポート第22号特集「削除された図式/THE SIX MAGNETS」
1 はじめに/「削除された図式」の行方を追って 半田晴子
2 「日本・現代・美術」の明日は何処に?〜「削除された図式/THE SIX MAGNETS」レポート  福居伸宏
3 アーティスト・トーク(作品解説) 荒木佑介・田巻海・半田晴子・平間貴大・三輪彩子・室井良輔
4 展覧会について 荒木佑介・半田晴子
5 歴史を召喚する天使の作法 「削除された図式」展レビュー アライ=ヒロユキ

レビューとレポート第22号(2021年3月)