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アーティストのジブンガタリ 第1回 ―書くということ― 岡田裕子

 機会があれば、これまで作ってきたそれぞれの作品について、言語化した文章を残した方がいいかもしれない、と考えている。
 文章をどうするか。硬くなく、むしろ作品にまつわる雑文のような形が望ましいかもしれないなとか……そんなことをうろうろと考えつつまだ着手できていない。

 アーティストは「ステートメントを書いてください」と求められ、自身の作品について文章化する機会はある。
 しかし、大抵は、展覧会会場やカタログにおいて作品の鑑賞に役立てるためだったりするので、ごく簡潔な文章としてまとめなくてはならない。
 たとえば、料理本によくあるのは「懐かしいカレー1980年代風、じっくり煮込んだビーフと季節の野菜」なんて説明だが、これは単なるサブタイトルである。ここに、アーティストがなぜこのカレーを作ったのか、ねらい、テーマ、これまでの自分の考え方などを盛り込むと、いわゆるステートメントの出来上がり、なのだろうと思う。

 さらに他の手段。作品や私について「喋って伝えて」文章に残すこともある。それはインタビューである。
 しかしこれがまた厄介で、話下手な私はインタビュー現場で緊張し、動揺してしまい、うまく簡潔に明瞭に答えることができず、幾度となく冷や汗をかき、自分の挙動をなんとかまともに見せようと苦心する。また、話したら話したで話題がどんどんあっちこっちに飛んでいき、気がついたらものすごい長い時間が過ぎてしまったということもある。帰宅すると「ああじゃなかった」「なんであの話をしなかったのか」と後悔に苛まれるのだ(もちろんインタビューされるのは迷惑ではなくウェルカムなので遠慮なく声をかけて欲しい)。
 喋りを得意とするアーティストも居るだろうし、そういう方々は十分にそれを活用して欲しいと思う。けれど、リアルな対面でのコミュニケーションを苦手とするからこそ、それ以外の方法で自己表現ができるアートという世界を選んだという私なので、喋ったり態度で己を表したりすることは全く得意ではない。そういうアーティストは多いのではないだろうか?
 というわけで、私や、きっと多くのアーティストにとって、作品をきめ細やかに明瞭に、言葉や文章で伝えるというのはなかなか難しい作業なのである。

 作品というのは制作、完成に至るまでに長い過程がある。作者はそれを完成させるまでに、発想と結果だけでなく、ぐしゃぐしゃと重層的な思考をもって作品と長い時間向き合っている。動機があってアイデアが浮かび、制作がスタートしてからは常にこうでもないああでもない、と足掻き続けている。途中、ちょっとした奇跡を生むことで、救われる場合もある。私には、作品制作においてこの現象が2〜3回起こるように思う。

 作品制作を料理に例えてみよう。食欲がわくなど、これは動機である。そこから何を作ろうかとアイデアが生まれ、どんな素材を使って料理するか、どんな道具で調理するか、金銭的な勘定を加えながらあれこれと予想と実験を繰り返す。途中で、この料理はやっぱりなんだか違うと思ったら、食材から道具から全て捨てて、新しい何かを思案するという苦しみもある。
 多分私はアイデアの時点で90%ぐらいはボツになっているのだが…後から思い返してもしみじみと「ああボツにしてよかった」と思うので、必要な過程なのだろう。せっかく良い調子で料理が進んだがどうも美味しくない。そういう時は、今までの計画にないものをスパイスとして混ぜてみたりもする。
 そうして、お客様のテーブルに乗せられる時が、つまり展覧会など発表の場がやってくる。そこで新鮮でホッカホカの美味しいものを提供できるよう時間を計算しながら、搬入に間に合うかどうかのせめぎ合いの中で一番良い形にしていく。

 私は毎回新しいアイデアに挑んでしまう性なのだが、それは「現代美術」というジャンルに属しているからなのかもしれない。逆に、同じ作風をひたすら継続するアーティストもいるだろうし、それが望ましいと、遥か昔の美大生の頃に教えられたような気がする。他にも、エイヤっと、勢いで制作するのが作風です、とか、ライフスタイルが作品です、という人もいるだろう。
 しかし、誰にとっても作品にはそれにまつわる長い長いストーリーが潜んでいる。
 私は、簡潔なステートメントやインタビューで「その作品はどうしてこうなったのか」を正確に語り尽くすことが難しいなと思いながら、求められる範囲でやってきたのだった。

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「エンゲージド・ボディ:脳血管のティアラ」ナイロン(作家自身の血管をスキャンし、3D出力、など)に金箔 15×24.5×27cm 2019 ©︎ OKADA Hiroko Courtesy of Mizuma Art Gallery 撮影:宮島径

 と、ここまで書いておいてなんだけれど、言葉がなくても作品を鑑賞して何かしらが伝わればそれでいいのだ。なぜなら美術作品は基本的に視覚で味わうものであるから、言葉や文章というものが先に立ってきては本末転倒だからだ。作品に関わる何もかもを、余すところなく語るのも野暮かなあとも思う。語り尽くしてしまうのも、大切なラーメンのスープのレシピを、店主の生い立ちから何から含めて全部教えてしまって、味の神秘性が損なわれるような恐れを感じている。

 「芸術はそれを見たときに美しいと感動するもので、言葉の説明は必要がない」という発言を聞いたのだが、私はそうは思わない。言葉はコミュニケーションとして必要かつ重要なのではないだろうか。美術作品、特に「現代美術作品」なるものは、パッと見て不可解な物体であることが多々ある。宇宙人との交信ではないのだから、言語の補足なくしてわかってもらおうという態度は不親切ではないだろうか。
 好奇心は鑑賞者の方にこそ湧く。「これは一体なんなのか」「どうして作ったのか」「どうして魅力を感じるのか」。好きになった人をもっと知りたいという恋愛感情に近くすらあるのではないか。この好奇心に対して、制作者や展覧会を催す側はできるだけ応えてゆきたいものだ。そこで、文章や言葉などの言語は、見せる側と見る側のコミュニケーションを深めることに繋がり、美術作品はモノを超えて多くの人々の思考や感情をつなぐツールとなるのではないかと思っている。
 研究者がアーティストの作品を言語化し、文章にしており、その恩恵を私たちは時代を超えて受けている。言葉のプロフェッショナルが、美術を調査研究してコンテクストを作り上げ、アーティストと作品を記録し歴史化する重要な仕事だ。その一方で、アーティスト自身が発する言葉や文字化された情報は、その研究のためにも貴重な資料となると考えている。
 アーティストが書くということについてアーティストの私が書き始めて、それだけで長い冒頭部分となってしまった。

 次回に続く。

岡田裕子(美術家)
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参考

岡田裕子WEBサイト https://okadahiroko.info

トップ画像:自宅でられたさまざまなカレー(岡田裕子 作)

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第1回 https://note.com/misonikomi_oden/n/n8b390abe776f
第2回 https://note.com/misonikomi_oden/n/na73b54e2287d
第3回 https://note.com/misonikomi_oden/n/ne28d3f75c7ba

第4回https://note.com/misonikomi_oden/n/n824887b21354



レビューとレポート21号(2021年2月)