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アーティストのジブンガタリ 第2回 ―美術作品の<死>― 岡田裕子

 作品の現物をこの目で鑑賞し体験すること。まずはそれが、作品とアーティストを知る基本であると思う。
 しかし、実際に鑑賞する機会というものは、とても貴重であるし、無尽蔵にあるわけではないのだ。

 ひとりのアーティストが作品を発表する機会や場など、多くあるわけではない。美術作品の制作や、展覧会を実施するにはかなりの時間と労力を要する。ガチャガチャのようにポンポンと出てくるものではない。発表をするということ自体がそれなりにハードルが高い。場を借りるなら少なからぬ金銭の支払いをしなければならないし、主催者側から企画されるのは、これがなかなか狭き門なのである。

 観客目線で考えてみる。例えば、あるアーティストの今年の新作を観たい。しかし、その発表の場へ、まさにその時に足を向けるチャンスを失うと、二度とその作品にお目にかかれないということは充分にありえる。私自身も、興味を持った展覧会を観そびれて、ああ、もう二度とそれを観ることができないのかもしれないと後悔に苛まれるのもしばしばだ。

 世の中には「展覧会」が溢れかえっているわけだけれども、極めて著名なアーティスト、作品にでもならなければ、作品が繰り返し展示され、鑑賞者の目に触れるということは無いのだと思う。


 アーティストである自分の目線で考えてみる。これまで様々な作品を制作したのだが、今後その作品の展示機会がもしかしたら永遠に無いかもしれないと思う。あれだけ打ち込み、精魂込めて制作した作品が「なかったこと」になるのではないか、と空虚な気持ちにもなる。とはいえ、新しい作品を生み出すことは至上の喜びであるから、新作の制作に熱が入ってしまい、日常的には旧作のことは頭の中の「要整理フォルダ」に放り込んでいる。私はもう中年なので、あと何年生きられるのかなとしばしば考える。生きている間に、いくつの新しい作品を産み出し、何回展覧会ができるだろう。体力や頭脳はいつまで持つのだろう。旧作を展示する機会はいつ何回あるのだろう……。なんてリアルに数えてしまう。いつのまにか自分の寿命とアーティスト人生のカウントダウンをする癖がついてしまった。

 美術作品としての<死>とはなんだろう。

 美術作品としての物質的な<死>を考えてみる。まず思い出すのは、2014年の横浜トリエンナーレに出展されたマイケル・ランディの「アート・ビン」だ。吹き抜けの天井まで届きそうな巨大な透明の箱(ゴミ箱に見立てているのだろう)の中に、不要になったアーティストの作品をアーティスト自身が捨てていく。会期中、有名無名を問わず様々なアーティストたちが、失敗作を含めた多様な作品を捨てていくことでこの作品に「参加」した。私は参加しなかったが、私の美大生時代の作品は、実家に置いておいたら父に解体され大量の木の断片と化し、今でも庭の片隅に放置されている。廃棄するのもお金がかかるので、そのままずっと屋外で朽ちるに任せている。だから「アート・ビン」にそういったものを放り込んでしまえば、廃棄はアーティストと美術館が請け負ってくれるのだろうから、助かると言えば助かるだろう。


美大時代(その後廃棄された)作品の前で

美大3年か4年の頃。その後廃棄された作品の前で


 横浜トリエンナーレ2014では、様々なアーティストの作品群が「アート・ビン」に放り込まれる大きな音が、しばしば会場に鳴り響いていたという。その轟音は、他人の作品だとしても辛くて聞いていられないと言っていたアーティストもいた。捨てれば、美術作品はただの廃棄物だ。作品はいつでも「ゴミ」になってしまう。

 「ゴミ」といえば、もう一つのエピソードを思い出した。2018年に発覚した、東京大学本郷キャンパス中央食堂(いわゆる学食)の壁に飾られていた宇佐美圭司の大作「きずな」が、改修工事により廃棄処分にされていた話題。「きずな」は、東大で学食ランチを食べた時も「あれは宇佐美圭司さんの作品だね」なんて言いながら夫婦で眺めていたぐらい、知られた作品だった。東大たるものが随分と教養の低い事をしたなという残念至極な出来事。繰り返すけれど、作品は、管理しなければいつでも「ゴミ」となってしまう。

 では、どれもこれも価値があると思われるものは管理保管すれば良いのだろうか。しかし、管理という行為には、膨大なコストと労力がかかるのだ。時には、作品制作よりもさらにコストがかかる。

 例えば、手前味噌な話で恐縮だが、私の家族である会田誠の「MONUMENT FOR NOTHING II」という作品がある。増殖し続ける、ダンボールを主な素材とした立体作品だ。制作当初から会田本人が「システィーナ礼拝堂」になるような量的イメージと言っていたので、その調子で増え続けている。我が家は、それを保持するために千葉県の郊外に保管用の倉庫を自腹で借りている。その賃貸費用がそろそろ累計1,000万円に達する額であることに最近気がついた。古ダンボールや水張りテープでハンドメイドした作品なので、製作費を遥かに凌駕した保管費用となっている。仕事上の出費といえば仕方のないことなのだけど、新車も宝石も購入したことがなく、つましく暮らしてきた我が家の出費のアンバランスさ。なんだか怖いので普段はこれについて考えないようにしている。


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会田誠+21st Century Cardboard Guild
「MONUMENT FOR NOTHING II」
2008〜
制作風景:「会田誠展 世界遺産への道!!〜会いにいけるアーティストAMK48歳」鹿児島県霧島アートの森、2014
(c) AIDA Makoto+21st Century Cardboard Guild
Courtesy of Mizuma Art Gallery


 このように、実在する美術作品というものは、管理保管することに意思と労力とお金がかかる。作品が美術館やコレクターなどにコレクションされれば、もちろんそのコストは分散される。しかし、守り続けるメリット、または何らかのスピリット、そしてそのチャンスに巡り合わなくては、たとえ優れた作品であったとしても、粗大ゴミとなるのだ。

 そのような事情で捨てられたものは、美術作品の、物体としての<死>で ある。

次回に続く

岡田裕子(美術家)

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参考
岡田裕子WEBサイト
https://okadahiroko.info

アート・ビン
https://www.yokohamatriennale.jp/2014/artbin/index.html#

シンポジウム抄録/宇佐美圭司《きずな》から出発して | 広報誌「淡青」38号より
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z1304_00020.html


トップ画像:解体され現在も実家の庭の片隅にある美大時代の作品の断片

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第1回 https://note.com/misonikomi_oden/n/n8b390abe776f
第2回 https://note.com/misonikomi_oden/n/na73b54e2287d
第3回 https://note.com/misonikomi_oden/n/ne28d3f75c7ba
第4回 https://note.com/misonikomi_oden/n/n824887b21354


レビューとレポート21号(2021年2月)