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クラシックはロックだ!①

題名の通りの趣旨以外を、語る意図は全くない。が、「クラシック=ロック」という方程式を証明するためには、相応の説明や反証が必要だと思うので、いくつかの節に分けてゆっくり書いていきたいと思う。

筆者は、ロックも聴く。中学1年生の頃、姉の影響でBUMP OF CHICKENのライヴに日本ガイシホールまで聴きに行って、それがきっかけで彼らのライヴがある毎に、毎年のように足を運ぶことになった。このバンドも、近年は色々あったし作風も昔とは随分変わったこともあって、今では少し距離を置いているのだが。当の姉はもう最近は聴いていないようだ。

それでも最近だとAdoをよく聴く。ロックというより、彼女の場合はボカロの系譜なのだが、某アニメ映画を導入剤としてAdoをよく聴くようになった。「うっせぇわ」のデビューを皮切りに忽ちに日本音楽界にセンセーションを巻き起こした彼女だが、素性を見てみると意外と面白い。中身は根暗、陰キャを自称し、オールナイトニッポンなどで喋らせてみると何だかオタク気質、でも人生を何周かしてきたかのような人生観とその話し方は何か尋常ではないものを感じさせる。「自分のことが嫌い」とおっしゃるが、そこが何か大きな原動力になっているのだろうと推察する。それが証拠に、歌わせると声帯を何次元にも変化させているような声色、そして信じられない程のメッセージ性の強さである。ぶっちゃけ、かなりファンになった。これでもかなりニワカなのでコアなファンには怒られるかもしれないが、今度の年末のライヴにも行く。かなり楽しみである。

ロックからかなり話が逸れてしまった。ロックの文脈で言えばアヴリル・ラヴィーンもかなりよく聴く。きっかけはよく覚えていないが、学生の頃にかなり聴き漁った記憶がある。洋楽なので歌詞とか英語はよく分からないが、とにかく歌唱力に惹きつけられたのだと思う。最近、人気YouTube企画のファーストテイクでComplicatedを歌っていて、驚愕した。もう10年以上前のリリースだと言うのに、一切衰えがない。これが世界レベルのアーティストなのか。秋にジャパンツアーがあるらしいので、チケットを狙っている。

私のロック事情はこれくらいにして、私の感覚で言えば、ロックを聴いていると、身体が、心から踊り出したくなるような反応を示す。次第にリズムに合わせて足を動かしてみたり、体を振ってみたり、手を叩いたり天に突き上げてシャウトしたくなる。ロックにはそういう性質があるものだと考えている。

クラシックにもそれに似た部分がある。実際に、ショパンのピアノ協奏曲の第一番の最終楽章のロンドのピアノに合わせて、体を振っているご婦人が隣に座ったことがある。ちなみに、コンサートホールで体を動かしてしまうと他のお客様のご迷惑になるのでやめた方がいい。めっちゃ気が散る。私は最近ようやく慣れたが、慣れない人は永遠に慣れないと思うので、やめた方がいい。慣れたとは言うが、隣で指揮をされると気が散るタイプである。まだまだ精進が足りないのか、謎に指揮をしちゃうおじさんの節操がないのか。

ただ、ショパンの音楽に合わせて体を振りたくなるのと、ロックのそれとは本質がーー本当に微妙な点においてーー異なると思う。

ショパンやベートーヴェンの運命の音楽に体を動かすのは、その音型に体を合わせているにすぎないのではないかと思うのだ。運命の「ダダダダーン!」という特異な音型に指揮をしちゃったりするのは、その音型の印象に体を動かしてしまうのであって、生理的なものとは少し異なる気がしている。表現が難しいけど、聴いている方の脳には既に「その音楽が存在していて」、脳内の枠の中に聴こえた音楽を落とし込んでいる、そんな感覚に近いのだと考えている。既知の再確認とでも言うのか。はいはい!これが運命のリズムね!と確認すると言わんばかりに体を振ってしまう、どちらかといえば社会的な身体行為であるように思う。

ロックや、音楽的に近いジャズの場合はどうかというと、たとえそれが今まで聴いたことがない音楽だったとしても、曲調やリズム、拍の取り方、ベースラインやメロディーラインの動きなどで、まさにタブラ・ラサ(ロックに掛けているわけではない)であったとしてもそこに新たな音楽的感動が上書きされることで今まで存在しなかったムーヴメントが引き起こされる。その結果として身体がうずく。そして、上記のような身体表現として現れる。

それは既知の音楽であれ未知の音楽であれ、その場に居合わせた人間において共時的に発生しうる極めて生理的現象であるように思われる。ロックバンドのライヴにおいて黙って聴いてると「おぃ!なんで手ぇ上げないんだよぉ!お前もやれよぉ」みたいな同調意識が強く働くから仕方ないから手を上げてる、という意識的な身体表現ではなく、同調意識が働く前に作用する、「手を突き上げたい」という欲求が働くことにより生まれる身体表現だと思う。

私の知識では到底追いつくことのできない多義的なロックをこの一意に当てはめた時、クラシックという文脈でもこれが当てはまると思うのだ。ただし、ここから筆者が述べるクラシック=ロックとは、この定義に対して非常に観念的な要素を含むことを、ここでまず断っておきます。

縁があり、筝奏者のLEOのリサイタルを観る機会があった。極めてクラシカルな音楽表現のための楽器と思われがちな筝だが、概念を覆すような楽曲と奏法の連続だった。ドビュッシーのピアノ曲を始め、坂本龍一、自作曲など、その音色はハープ、アコースティックギター、エレキギター、クラシックギター、フラメンコギターなどに聴こえ、表現は多種多様だった。そのことはTwitterにも感想として書いたが、私がもっとも「ロック」を感じたのは、後半の坂本龍一の「1919」と、チック・コリアの「Spain」などだった。ピアノとヴァイオリンと筝という、至って典型的なクラシック音楽の部類に属する楽器とその編成が奏でる音楽は、まさにムーヴメントを引き起こす音楽だった。

(ここで私は、既に「ムーヴメント」という極めて抽象的かつ曖昧模糊な語を用いてしまっていたことに気がつくのだが)「1919」を代表として、自作曲などは聴いたことのない曲だったが、筝の刺激的な奏法を起爆剤として、私の中にムーヴメントが引き起こされたことは間違いなかった。クラシックホールでは体を動かしてはいけないとあれほど忠告していた私は「今は体、動かしていいんじゃない?」と思えるような刺激だった。

主観的な感性だと思われるかもしれないが、私はこの「クラシック=ロック」という認知は普遍的なものではないかと何となく感じている。これに関する賛否についてはさておいて、ここでは私自身の経験をこれからも紹介していきたいと思う。そのうち「ムーヴメント」とは何か?というところまで突き詰められたらいいかな、と思う。とりあえずはここまで。

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