「早く終わらないかな」×「最高の充実」× #0000CD / しの
宮本先生はいつも優しい。身体は細いくせに、笑い声は大きくて、若い先生が珍しいうちの高校では女子に人気だ。
「瀬戸、寝るな」
注意する声すらも優しい。数学は嫌いだけれど、宮本先生の授業は好き。分かりやすくて、点検されたノートには可愛いスタンプとコメントが添えられている。私のノートに押されるスタンプはいつも「がんばりましょう」。猫が旗を振っていて、私にエールを送ってくれている。『瀬戸ならもっと頑張れると思うんだけど」。毎回、そんな一言がくっついている。
夏休みだというのに、私は朝から宮本先生に呼び出されていた。
17歳の夏なんて、最高の響きなのに。私は先生とお勉強。響きだけ見ると最悪だけど、気分は最高。私は午前中の3時間、じっくりと宮本先生を見ることが出来る。
先生は、私が勉強をしている間に読書をする。今日は「こころ」らしい。国語の先生と話していて、なんとなく懐かしくなった、らしい。
宮本先生と初めて話したのは、1年生の文化祭のときだ。ひとりで後片付けをしている私に、先生が話しかけてくれたのだ。
「瀬戸、お前意外と真面目なんだな。」
きちんと話すのは初めてなのに、先生は結構……失礼だ。でも、このとき、私は先生の笑顔に胸が高鳴ってしまったのだ。
平均くらいの身長も、150㎝の私にはぴったりだと思ったし、先生のチョークを持つ手は綺麗だと思っていた。だから、私がこんな風にときめいてしまうのは仕方がないことなのだ。
「先生は、真面目な子好きですか?」
「んーそうだな。校則守るのは大事だと思うな。」
ははっと声を上げて笑って、頑張れよと肩を叩いてくれた。それだけのことなのに、私の胸は音を立てて、耳たぶが焼けるように熱い。
とりあえず、私は次の日から膝上12㎝のスカートを膝のお皿が隠れるくらいまでに伸ばした。染めていた毛先の部分をバッサリと切って、どちらが本体なのか分からないくらいまでにつけていたキーホルダーも1つだけにした。
今までつるんでいた友達は減ったけれど、すごくいいと思った。何が?と聞かれても分からないけれど、宮本先生が褒めてくれた。だから、すごくいい。
「先生、分からない」
夏休みに入って、私は毎日午前中に学校に来ることを義務付けられた。受験生でもないのに?と不満を表すと、受験生になるつもりなら来いと丸め込まれる。見た目を変えたからと言って、言動まで大幅に変わるわけではない。授業はさぼらないようになったけれど、聞いているわけではない。
すべてが私の睡眠時間へとなり果てていた。おかげでテストの点数も内申もボロボロだ。
宮本先生は、私になつかれていると職員室で評判になり無事に“瀬戸係”になった。そこまで暇じゃないんだ、と怒りながらも、こうして夏休みの午前中をすべて私にくれる。お人よしにもほどがある。
「……俺の担当は数学だ。」
「私が今しているのは日本史です。」
「暗記教科は教科書を読め。どうせ置き勉なんだから、ロッカーから取ってこい。以上。」
「原センに夏休みだから強制退去って、全部の実技以外は持ち帰れって。チェック付きで。」
「笹原先生らしいな。」
宮本先生が、喉の奥をくつくつと鳴らして笑う。先生がこんな風に笑うことを知ったのは、去年の12月。一緒にお昼ご飯を食べたときだ。たしか、あのときも原センの話をしたときだ。宮本先生は喉を鳴らして笑った。いつもは声を上げて笑うから、驚いた。こんな笑い方も好きだなって思った。
私は先生のことを何も知らない。本当に、何も知らないのだ。
生徒のなかで、私はお気に入りの部類の中に入っていると思う。どの生徒よりも、長い時間を先生と過ごしている自信もある。でも、やっぱり足りないのだ。
「先生、昨日つけていた指輪どうしたの?」
「何の話だ?」
「昨日、シルバーリングつけてたじゃないですか。」
左の薬指、骨っぽい長い指に光っていて、その眩しい輝きで私の胸はぺちゃんとつぶれた。
「瀬戸があまりにもからかうからやめた。やっぱり、そういうのはつけてきちゃいかんよな。」
「……夏休みだからいいんじゃない。ハメ外しても。」
自分から話題を振ったくせに、つまらなそうな言い方になってしまう。いかん、これじゃあだめだ。いくら、先生が鈍いといっても気づかれてしまう。
何か違う話題はないかと窓の外を見ると、原センがグランドに向かって歩いていく姿が見えた。
「原センだ。」
「ん、本当だ。」
私の声に反応した先生は、ニコニコとその姿を見つめて微笑んだ。
「……教科書、取ってくる。」
「持ち帰ったんじゃなかったのか?」
「……資料集とか置いてた気がした。」
ここにいちゃいけないと思った。私は絶対に泣いてしまう。
教室に入ると、緩んでいた気がふっと抜けて頬が濡れる。ぐしゃぐしゃだ。蒸し暑い教室のせいで、肌がじっとりと汗ばんでくる。泣いているせいで、体中が熱くなる。
「あの」
誰かがいるなんて、思いもしなかった。私はそれほどまでに、何も見えていなかったのだ。急いで涙をぬぐうと、視界が少しだけ晴れる。
「瀬戸さん、どうかしたの?」
見ると、同じクラスの伊藤くんが立っていた。
「何か、嫌なことでもあった……?あ、えっと、これ!使ってないから」
私の顔を見て驚いたあと、そっとブルーのタオルを差し出される。先生が好きな色だ。気合を入れなくちゃいけない日、先生は深いブルーのネクタイを締める。もしかしたら、あのネクタイはプレゼントだったのかもしれない。タオルを見ていたらさらに泣けてきて、私は声を上げて泣いた。
伊藤くんはおろおろとして、大丈夫?ばかりを言う。きっと優しい人なのだ。
薄暗く熱が押し寄せる教室で、私は力の限り泣いた。伊藤くんは、私に最後まで付き合ってくれて、部活で使うはずのタオルを犠牲にしてくれた。
ありがとう、とお礼を言うと、クラスメートだからと笑った。
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夏休みも終盤。夏っぽい話が書きたかった。
誰もいない教室の、あの空気が好き。みんなの笑い声が、そこら中に潜んでいそうな、そんなひっそり感。
高校のころ、忘れ物を取りに行くだけなのに無駄にドキドキしたのを覚えています。
ほの暗くて、でも日差しが差し込んでぼんやりと明るくて。思わず目を細めてしまうような、そんな眩さがあった。
ふと、学生たちと話していると、そんな光景が目の前に浮かんでくる瞬間があります。
たまに目がくらみそうなほどに羨ましくて、帰り道に涙がにじむんだよね。歳、重ねちゃったなぁ。
公式サイト「花筐」
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