6センチの憂鬱
ヒールのある靴、履きたかったなぁ。せっかくのお楽しみの日だ。
スタイルもよく見えて、足も細く見えて。ついでに、春を彩ったような華やかな色だとすごくいい。華奢なヒールでその辺に軽快な音を鳴らしながら、ぐんぐんと歩きたかった。
足には妙にフィットしている、500円で買ったグレーのバレエシューズ。歩きやすいし、服とも合わせやすいけれど。やっぱり、“ぺたんこ”なところがちょっと引っかかる。今日は、特別な日なのに。仕事や散歩にはぴったりだ。ジーパンにもスカートにも合うし、色も合わせやすい。
でも、今日は仕事のあとにずっと楽しみにしていた予定があるのだ。舞台を観に行く予定なんだもの。オシャレ、したかったな。
独りでも、誰かとでも、出かけるとなると結構本気で洋服を選ぶ。とにかく、“お出かけ”というのは私にとって大切なワードなのである。
仕事だったら別になんでもいいし、服装に縛りがあるわけでもないから、パーカーにデニム、スニーカーで済ませてしまう。もちろん、気が向いたときにはきちんとオシャレをするようにする。でも、そんなの月に1度でもあればいいほうだ。あとは、吟味して選んだ適当に見えない組み合わせでお茶を濁す。化粧も最低限だし、そんなものだ。
しかし、出かけるとなったら話は変わってくる。メガネのフレームだって考えるし、映画や舞台を観に行くなら絶対にコンタクト。泣くときにメガネは邪魔だからね。デニムだったらトップスはこだわりたいし、ちょっと高かったスカートだって下ろしたい。ずぼら女なりに、それなりにこだわりはあるのだ。
今回、観に行った舞台は3カ月前からチケットを準備していた。仕事が落ち着く日が分かっていたから、「絶対にこの日!」と決めて、発売が開始した瞬間に速攻で購入した。絶対、絶対頑張ろう。この日まで、全力でやりきろう。発券されたそれはとても輝いて見えた。鼻先にニンジンをぶら下げられないと、頑張れないときだってある。毎日があっという間に過ぎていくことは分かっていた。与えられた仕事を丁寧にやり切りたい。そんな、ちょっとした願掛けも兼ねていた。
1枚のチケットが、2カ月分の私の力の源だったというわけだ。
そんなだから、もちろんオシャレがしたくてしたくてたまらない。別に私の服装なんて、誰も気にしていないけれど。それでも、私はどうしてもお気に入りの恰好をして行きたかった。素敵な格好で劇場の椅子に腰かける私を想像し続ける、2週間前からずっとそんな風に過ごしていた。
昨日、帰宅が思ったよりも遅くなってしまった。一息ついて時計を確認すると21時40分だ。20時30分には家にいると思っていたんだけれどもなぁ。
計算が狂ってしまった、とコーディネートをするためにエンジンをふかそうとぼんやりとした頭でスナップ特集が組まれている雑誌をめくる。
パリやロンドンなどの素敵な都市のオシャレさんを一堂に集めたその特集は、私の超お気に入りである。デートやショッピング、犬の散歩などなど……様々な目的で街に出てきたたくさんの人たちがそこには映っている。オシャレな街に絶妙に馴染む人たちを見ていると本当にわくわくしてくる。シンプルで落ち着いた色を使っているのに地味じゃない。それぞれの性格まで見えるようなコーディネートを、私は羨望の混じった視線で見つめてしまう。
明日は、ちょっと高めのフレアスカートを履こうかなぁ。チェックのワンピースでもいいかもしれない。そんなことを、ここ2週間ほどうだうだと考えていた。
しかし、見つけてしまったのである。
ロールアップしたボーイフレンドデニムに、黒いローファーを合わせて、ちょっと大きめのコートを羽織った、バランスのよい遊び心のあるボーイッシュスタイルを。足首が見えるから、がぼがぼとしたコートでもピシッと締まるし、何よりシンプルなのにチャーミングな印象に決まる。……着る人の持つ雰囲気に大きく左右されそうではあるけれど。
購入を予定していたパンプスは、タイミングを逃して買えずじまいだった。
そうだ!いつもは履かないローファーで非日常感を演出しよう!
そんな魂胆だったのだが……。そんな簡単にいかないのが人生である。
高校時代に履いていたローファーは、独り暮らしをするときに持ってきていた。高3の後半に買ったからほぼ新品だ。それに、女子高生御用達のHARUTAである。ちょっと高めのヒールもお気に入りで、高校生用ということで歩きやすさも抜群。
新しいパンプスは履けないけれど、そこそこ良い靴を履けたら私のこの欲求は満たせるんじゃない?と、前日の夜から準備をしてわくわくしていた。……のだが、大誤算が起きた。
そして、今日の朝。予定通りボーイフレンドデニムをロールアップして、久しぶりのローファーに足を入れた。しかし、玄関から一歩踏み出した瞬間に、コトンと必要以上に大きな音が廊下に響く。足には、ひやりと冷たい感触がして。分かりきっているけれど、一応足元を確認すると一歩後ろに右足にあるはずのローファーが転がっていた。
……うん。いやいや。
気を取り直して、靴下だけの右足をローファーに入れなおす。ぐっ!とつま先に力を入れて脱げないようにして何歩か歩いたが、次はくるぶしにガツガツと当たってめちゃくちゃ痛い。骨がズキズキと鈍く痛む。
マジかよ、と絶望しながら前日の夜に確認したサイズを思い出す。23センチ……。1.5センチもでかいんじゃ、そりゃあ、脱げて当然かぁ。
結局、家へと数歩ほど逆戻りして履きなれたバレエシューズに履き替えたというわけである。
全体のバランスは悪くない。久しぶりに袖を通した、菜の花が所々に刺繍されたブイネックのスウェットもシンプルながらデニムに合う。派手じゃないけれど、発色の良い糸が使われていて適度に華やかである。
だからこそ、やっぱりヒールがある靴を履きたかった。
イイ女度はヒールの高さに比例する、なんてどっかで耳にした言葉を真に受けているわけではないけれど、特別な日だからこそ自分にとって特別な靴が履きたかった。自分を特別なオシャレにしてあげたかった。
高校を卒業してから、ただでさえ小さい足がさらに縮んでしまった。
22.5センチはあったはずなのに、もはや縦は22センチほどだし、横幅もない。子供用サイズの22.5ですら緩いのだ。体重的な問題で大人用が望ましいというのに、『成人女性のサイズでは一致する商品はありません』なんていう表示が出たことも(自分で測った数値を入力するだけでピッタリのサイズを表示してくれる便利なサイトがあるのだ)。
“シンデレラサイズ”なんていうと可愛いけれど、本人にしてみたら“可愛らしい”という一言で済まされるものではない。というか、普通に不便だ。履きたい靴はほとんど履けないし、Sサイズを見つけたら迷わず買うしかない。
よし、少し悩んでおこう!という保留がきかないのは、なかなかに困る。
出会ったときが、買いどき。そんな一期一会な靴との出会いを、私は日々大切にしている。
さて、結局、私は3カ月前から楽しみにしてた特別な日に、近所のスーパーにも履いていく“いつもの靴”で向かった。
しかし、とても!とてもとても楽しかった。目の前で繰り広げられるお芝居に、たくさん笑って、たくさん泣いて。手が痛くなるほど、たくさん拍手をしてきた。エネルギーが溢れているってこういうことを言うんだろうな!
映画やドラマももちろん好きだけれど、直接受け取るってやっぱり凄まじい。受け取る情報やパワーが大きすぎるもの。
映画でも、ドラマでも、本でも、とにかく誰かの想いが詰まっているものを受け取るのは気持ちがいい。
少しだけ軽くなった心と、素敵な芸術を携えて500円のバレエシューズで会場を後にした。気のせいかもしれないけれど、足取りまでなんとなく軽くなった気がする。もはやぺたぺたと響く足音すら、なんだかヒールと同じようなリズムを生み出している気さえする。
なんだかんだ、今日はこの靴でよかったのかもしれない。きっと、そう。
でも、やっぱり、6センチへの未練はまだまだ断ち切れそうにない。
いつか、ヒールで闊歩できるイイ女になれますように。
小さな欲望を秘めて、きっと私は明日もスニーカーで街を歩く。たぶん、私が“イイ女”になれる未来はまだまだ遠い。
とにかく、春だし。今度こそ、6センチヒールを手に入れるぞ!
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