見出し画像

13年目の3月11日

※思い出すとつらい方もいらっしゃると思います。
地震についての描写がありますので、つらい方は読み進めず「こんな募金があるんだな」というところで画面をお閉じください。

3.11の様々な募金は今も続いているが、2011年当時から私が必ず続けているのは、
・Yahoo 3.11検索
・Starbacks ハミングバードプロジェクト

の2つだ。
「誰でも簡単にできること」「続けやすいこと」
というのは、実はとても大切なポイントだと思っている。
特にStarbucks ハミングバードプロジェクトは、今年は能登半島地震における被災地も含まれるそうだ。


2011年3月11日14時46分。
三陸沖の宮城県牡鹿半島の東南東130km付近で、深さ約24kmを震源とする地震が発生した。
震災関連死も含めた東日本大震災による死者と行方不明者は、2万2215人と言われている。

いまだ完全な復興を果たしたとは言えない甚大な被害をもたらした大震災から、13年が経とうとしている。
そんな今年の1月1日に、よもや13年前の今日を思い起こさせるような地震が発生するなんて夢にも思わなかった。

2024年1月1日16時10分。
フラッシュバックするには十分すぎるその震れは、お正月の晴れやかな空気を一変させた。
恐怖が募る反面、3.11の教訓が活かされていることにわずかな安堵を覚えた。
避難についてなどは大きなところではあるが他にもある。
SNSなどで「自粛や不謹慎などということはない、精神的にまいってしまわないように」という呼びかけが増えたことだ。

大きな天災が起こればテレビやラジオは一色に染まる。
情報発信という点においてとても大切な部分ではあるのだが、一方で参ってしまう側面もある。
3.11の時、未曾有の大震災に各社CMの自粛、テレビ番組も報道のみ、となったことがある。
ACジャパンの「ポポポポーン」だけがCMの時間に流れ続け、被災地の映像だけが画面いっぱいに映し出された。
世界から色が消えたのかと思った。
ひと月が経った頃だったろうか。
アセロラドリンクのCMが流れた。色鮮やかなアセロラの赤い色に、安堵して涙がこぼれたのを覚えている。

そういった経験を13年前にして、それは精神を病んでしまうと気づけたことは一つ大きな経験だったと思う。
被災地と関わりの薄い人や感受性の強い人は特に、心を痛めすぎず情報から適度に離れることは大切だ。
復興が始まってから観光に行く、募金をする、希望のあった物資輸送の出資をするなどできることはたくさんある。
そういった情報接種の取捨選択を震災時にもして良いのだとSNSなどで広まったことは、経験が大きく活かされたところだと思っている。

さて、当時私は群馬県前橋市に住んでいた。
高速道路の前橋ICから仙台宮城ICまでは内陸ルートでおよそ332㎞。
高速道路を使えば3~4時間という決して近くはない距離で発生した地震は、前橋市でも震度5強。
桐生市では震度6を観測し、震源から遠く離れていたにもかかわらず亡くなった人がいたという。

当時私は一人暮らしをしていて、引っ越しの真っ最中だった。
新居に必要なものを買うために、吉岡町にある大きなホームセンターを訪れていた。
だだっ広く柱の少ない大きな店内にはスーパーが併設されていることもあって、保育園帰りの親子連れで混雑する時間だった。

天井がピシリと鳴った。
春にはめずらしいが、群馬名物の強風でも吹いているのかと思った。
次の瞬間、ぐらりと地面が揺れた。
棚から洗剤のボトルが降ってきた。

人間、本当に驚くと思考が止まるものなのだと、この時知った。

私はびっくりして動けなかった。
実際に動けなかった時間は5秒にも満たないと思うが、思考も行動も停止してしまった。
私が動けたのは、知らない女性の叫び声のおかげだった。

「逃げて!外に出て!走って!」

女性が、幼い自分の子どもに避難を促したその声が、私をはじめとした周りの大人も助けてくれた。
下から突き上げるような気持ちの悪い揺れは、次第に大きな横揺れになり、真っ直ぐ立つことも難しいほどだった。

お店の外に出ても揺れは止まらない。

どのくらい揺れていたのかわからない。
気づけば地面に座り込んでいた。

揺れがおさまって、お店の人が声をかけに来た。
「すぐにお店は封鎖するので、今のうちに必要なもの買ってください!」
今考えれば、とてもありがたい配慮だった。
ここで食品や生活用品を買えなかったら大変なことになっていた。

店内は通路に物が散乱していた。
棚が倒れていないのはしっかりと対策されていたからだろう。
それでも店側としては危ないから封鎖するという決断だったろうが、担当者さんがいつ再開できるかわからないことを考慮してくれたようだった。

混乱したまま買い物を済ませ私は車に戻った。
そこで初めて自分が震えていることに気が付いた。
地震発生から、約30分が経過していた。
普段連絡をしてこない母が電話してきた。
「よかった!やっと繋がった!」
やっともなにも今初めてかかってきたと伝えると、今までずっとかけ続けていてやっと繋がったのだという。
電話回線もパンクしていて、前橋市は震度5強だったこと、震源は群馬ではないことを聞かされた。

あんなに揺れたのに、何なら今もうっすら揺れているのに、震源が群馬じゃない?じゃあ震源はどこ?

「宮城県沖だって。」

血の気が引いた。

私は前日の3月10日に、仙台に帰る友人を高崎駅まで車送ったばかりだった。
駅で別れる前、「帰るのもう一日だけ延ばさない?」と言いたくなった。
久しぶりに友人と過ごしたのが楽しかったからだと思っていた。
今思えば、これは予感だったのかもしれない。

そんなことが一気に頭を駆け巡った。
涙と汗が噴き出して、うまく息ができなかった。
心配する母の声が聞こえる。
やっと絞り出せた言葉は、「どうしよう」だった。
過呼吸になりながら止まらない涙を流して震えている私が断片的にこぼす言葉を拾って、母は理解したようだった。
「引き留めても学校があるからって帰っただろうことはわかるでしょ。心配だよね。でも、今電話しちゃだめだよ。家族が先に連絡付けられるように、少しでも回線がつながるようにしようね。それから、きっとお友達は連絡くれるから、大丈夫?って簡単なメールだけ送っておきなさい。絶対電話しちゃだめよ。」

パニックに陥っていた私は気づかなかったが、母のアドバイスは正しかった。
私は地震に慣れすぎていたのだと思う。
幼い頃は伊豆半島に住んでいて震度3までの地震はよくあったように思うし、そもそも日本は地震大国だ。
大きな地震は怖い。
でもこの時はまさかライフラインが止まるなんて思わなかったのだ。
津波が起きたことも聞いたのに翌々日にニュースで見るまで、こんな大きな震災だとは思ってもみなかった。
電気・ガス・水道などのライフラインが止まっていることもこの時は知らなかった。
ライフラインの復旧まで半年かかる地域があるなんて思ってもみなかった。

友人からは「生きてる」と端的なメールがきて、そこからまた連絡が途絶えた。
連絡がきたのは翌日だったと思う。
停電しているから携帯電話の充電もできず、ディズニーのような行列に並んで公衆電話からかけているのだと言っていた。
14日の夜に、「電気復旧!」というメールが届いた。
そこからは毎日、報道されている情報を問い合わせる電話が来た。
私はテレビで放送されるニュースの画面を読み上げていた。
情報が入ってこない状況でこの電話が重要な情報源だったそうだ。
友人が様々な伝手で車を使って群馬に避難してくるまで1週間程度だったと思うが、おそろしく長い期間に感じた。

この頃、東北へ自衛隊派遣するために群馬が経由地になっていたのか、群馬から派遣されていたのか、道路をキャタピラの戦車のような車が走っていたのを覚えている。
計画停電で、車に乗って走っている道路の両脇からどんどん電気が消えていくのも見た。
信号にも電力供給されず、警察官が交差点に来るまで交差点は地獄のようだった。
全ての交差点に配置するのは無理なのだろう、配置されていない交差点の右左折は怖かった。

私のこの経験は、東北地方で被災された方々の恐怖や経験を露ほどにも語れないだろうと思う。
どれほど恐い思いをなさったか、どれほど哀しみと絶望に打ちひしがれたかなんて、想像で語ることもできない。

それでもはっきり言えることがある。

被災地にいなかった私でもトラウマになったということだ。
緊急地震速報のアラーム、下から突き上げる揺れ、家鳴り・・・そういった経験した全てのものがトラウマになった。
似た音を聞くだけで、似た揺れを感じるだけで、今でもあの日の恐怖を、何もできることがないという絶望感を、鮮明に思い出す。
全て忘れてしまえたらどんなにいいだろうと思う。

今後、同じような哀しみを繰り返さないために。
同じような被害を繰り返さないために。
その為に語り継ぐことは大切なことだと思う。
その一方で、被災された方々には少しでも心安らかに過ごしてほしいと願う。
苦しみを乗り越えて語り部となることを決意された方の志は立派だ。
頭が上がらない。
必要だから語る、というのは間違っていない。
でも、語りたくない、思い出したくない、という方だって少なからず居るはずだ。

震災も、戦争も、当事者の声というのは実感を伴って重みがある。
しかし、語る度に鮮明に思い出し、追体験しなければならないという痛みも伴っている。
その痛みを耐えても伝えるべきだと、話してくれている一方でその痛みを取り除きたいと願うのは決して間違いではないと思う。

13年。
13年経って、どれほど変わっただろうか。

トラウマが薄れることはない。
私でさえ。

毎年特番を見るたびに思う。
どうか、被災者の方やその関係者の皆様が、少しでも安らかに、少しでも穏やかに過ごせますように。
どうか、不用意に思い出さずに済みますように。

この記事が参加している募集

防災いまできること

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?