見出し画像

陶芸家のおしどり夫婦から学んだ本当のゆたかさ。

素敵なおしどり夫婦が教える陶芸教室。

そこは時間がゆっくり流れている。

縦長の小さい工房、作業机は窓際に並んでいて、窓の外を見ながら作陶をする。

教室にはいつも先生の飲む珈琲の香りが漂っている。お気に入りの豆らしい。

教室につくやいなや、私が前回つくり終えた焼き上り作品を見せてくれる。

「ものすごく良い作品が出来ましたよ〜」

先生がニコニコしながら褒めてくれるもんだから、さも自分が名作家になったような気分になってくる。

奥さんは作陶をする日もあれば、和名の色鉛筆を取り出しては、鮮やかな幾何学模様をスケッチブックの上に生み出したりしている。

毎週日曜日には近所で農家をやってるおじちゃんが威勢よくやってくる。

「おうー!これ美味いの採れたから持ってきたわ!」

採れたての野菜やら果物やらを持ち込んで来てくれるので、それを一緒に頂いたりする。

生徒さんに素敵なご夫婦がいる。

教室の前にいるのになかなか入らず、ようやく入ってきたと思えば「先生、椿が綺麗に咲いてますねぇ」

一言目がこれなんだもん。なんて素敵なご夫婦なんだろう。

これまた素敵な先生方ご夫婦がこう返す。

「なかなか入って来られないと思ったら、なるほど、椿に足止めされていたんですねぇ。」

あぁ、ゆたかさってこういうものなのかもしれない。

入り口に咲いてた椿に気付かなかった自分が恥ずかしくなってくる。

15時のおやつタイムも楽しみのひとつ。

「今日はアイス3種類あります〜、どれを組み合わせます〜?」
「杏仁豆腐ここの美味しいんですよ〜。是非是非お試しあれ。」

先生はこんな風にいつもいつも楽しそうに提案してくださる。

甘すぎない手作りの餡子とお芋の和物が並んだり、時々話題のスイーツが並んだりもする。

そして、どんなおやつも手作りの温かみのある器に盛られている、時短で便利であることばかりが信仰されるこの時代にだ。

小袋のチョコレートも小さな器に盛られ、ポッキーなんかは専用の縦長の器に立って入れられていて驚いた。

ただのチョコレートが器ひとつで特別なものになるのだから。

その器はただのモノではない、込められた思いとかけられた時間がある。

心が感じられるモノだから、それを使うこちら側までもが幸せな気分になるんだろう。

私は普段、沢山のモノに囲まれているはずのに、こんな幸せな気分になれないでいる。

誰が作ったか分からないモノに囲まれていて、有り難みを感じにくくなってしまった自分に気がついた。

面倒な事は知らない誰かが、もしくはAIがやってくれる恵まれた時代に生まれたはずなのだけど、この満たされなさの正体は一体何なのだろう。

時短で便利な合理性を信仰する代わりに、省かれてきたものは何なのだろう。

ゆたかさって何なのだろう。

この陶芸教室に来ると、幸せな気持ちになる一方で、もくもくと湧いてくる違和感の塊があるのだけど、私はあえて気づかないフリをしてしまう…その方が都合が良いからだ。


「素晴らしい作品ばかり沢山あるのに、売ろうとは思わないんですか?」

私はある日こんなことを聞いてみた。

「うーん、売れたらなぁとは思うんだけどね、ロハスフェスタとか〇〇市みたいなのに出展したこともあるんですけどね、やっぱり人も多いし、賑やかで本当に良さを分かって頂ける場所なのかなぁとか、ねぇ。

それでも稀に、あぁ、お召し物が素敵で、雰囲気も良いなぁと思うような人がいて、なんと!その人が真っ直ぐにうちの出展ブースに足を運んでくださる時があってね、通じたのかなぁって嬉しくなることもありましたけどね。」

そんな風にぽつりぽつりと言葉を選んで話をしてくれた。

頭でっかちだった私はもっとブランディングして、広報に力を入れたら沢山の人に知って頂けるのに、もっとお金が稼げてゆたかになるかもしれないのに勿体ないと思ってた。

当時の私は意図するところの感覚があまり分からなかったけど、何故か今は少しわかる気がする。

先生方は多くの人に知ってほしいなんてこと、これっぽっちも望んでいなかった。

分からない誰かに分かったような顔をされるよりかは、分かる人に分かって貰えればそれで十分幸せなんだ。


誰に誇るわけでもなく、自分が楽しんでいるというその事実だけで十分なんだろう。

誰の評価も必要としない。

自分達が自分達を評価出来ているのだ。

だから

“こんな風に自然的に生きているんですよ、素晴らしいでしょ?”

なんて主張もしなければ、当時の頭でっかちな私にチクリと言ってくることもない。

何ひとつとして押し付けず、ただただそこで慎ましく生活をしている。

まるで花が咲くようにひっそりと、でも堂々と。



先生は出来上がった作品にも寛容で、愛がある。

完璧なんて無いことを知っているからだ。

陶芸は窯の中に入れたら最後、どんな作品になるかは天に任せるしかないのだ。

だから、どんな結果でも面白がって受け入れる。

足るを知り、美しいものを見て、素直に感動し、それを分かち合う。

そしてその感動を器というモノにして表現する。

そんな自然的で着飾らない美しさがあることを知った。

ゆたかな心を持つ人は、誰からの評価も必要としない。

日々の暮らしひとつひとつを表現として捉え、それらを丁寧に味わい楽しむことがゆたかさなのかもしれない。

今の私には、気づかないフリが出来そうにない。

いや、もう気づかないフリをしたくない。

ちゃんと向き合おう、本当のゆたかさと。

ちゃんと向き合おう、私自身の幸せと。