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「好きだからふれられない」という愛情表現と無限セクシュアリティ

女の子同士で、手をつないだり。

仲がいい友人でチューをしたり。

頬と頬を、くっつけあったり。

そういうことを、なんの違和感もなくできる女性が一定数、いるということは、わたしも知っている。

けれどなぜだか、肌でふれあうということは、わたしにとっては特別すぎる。

だからむかしから、基本的に身体の距離感が遠い。

女友達で手をつないだりした記憶はほとんどないし、友人に対してハグもボディタッチも好んですることは、あんまりない(海外に行くとこれがまた激変するのだけど、その話はまた今度)。

どんなに共に修羅場をくぐり抜け汗水流した仲間でも、肩を組むのはちょっと居心地悪い、と感じてしまうこともある。

男だろうと女だろうと性別はあんまり関係なくて、自分が好きなひとに対してはなおさら、やすやすとふれることができない。

でも好きだから、ふれたくなる、という気持ちはわかる。

去年から#創作メルティングポットという社会人文藝チームに入れてもらっていて、今週末の2月17日に東京で開催されるコミティアでは、全員で2作目を出すのだけれど、そのテーマが「百合」だった。

「百合」、つまり、女性同士の恋の物語だ。

わたし一人で書くならば、ぜったいに思いつきもしないテーマだった。

だから、違和感がありつつも原因不明で長らく持て余していた、自分の身体的距離感について書こうか、と思って書き始めたのだけれど、結局内容は、身体とはあんまり関係ないあらすじに着地した。

今回書き上げた小説は、主人公が書いた手紙という体裁で進んでいくのだけれど、やっぱり「ふれられない」距離からしか、登場人物の関係性を書けなかった。

好きな人との身体的距離について向き合うために書こうと思ったのに、“手紙”という一番距離が離れているかたちになってしまったのでした、無意識にふれるのを怖がっているのかもな。

あとひとつ驚いたのは、わたしは女性に対して恋心を抱いたはずがないのに、異性に対する色恋の物語よりも、ずっと早く展開を思いつき、書き進めることができたことだった。

経験のあることよりも、経験のないことのほうが、物語の筋がするするするーっと出てくるのだ、書きながら感情移入までしてしまって泣きそうになっている自分に、驚いた。

戸惑いつつ自分の知らない感情をジッと観察しながら、ああ、愛情というものは、とてもカラフルなんだなと、感じずにはいられなかった。

恋とか愛とか母性とか、表現する言葉はいろいろあるけれど、「ふれたいけどふれられない」ような存在にでくわしたときの戸惑いと緊張と安堵とよろこびは、そのどの言葉にも当てはめられない。

その対象が、身体的な男性であろうと精神的な男性であろうと男でも女でもなかろうと、名もなき愛情の洪水は、ぜんぶ無償でのみこんでしまう。

その洪水を誰かに向けてうち広げたとき、たまたま相手の見た目が同性だと、ゲイとかレズとか、言われているだけなのかもしれない。

つまりどういうことかって、異性愛者だとおもっているわたしでさえ、同性を好きになる可能性があるんだと、気づいてしまった。

わたしは自分のことを女だと思っているけれど、死ぬまで女性を好きにならなかったとして、それは「好きになれない」のではなく「たまたま好きにならなかっただけ」なのだ、きっと。

どこかであたりまえのように「わたしは異性愛者」と決め込んでいたけれど、誰と出会うかによっては、そうではなくなる可能性だって、大いにあるということを、微塵も考えもしなかったから、「百合」というテーマは未知なる世界を教えてくれました。

こうした愛情の色合いは、エロスとタナトスを併せ持っているし、セクシュアリティをも包括する感覚ものだと思って疑わない。

何言ってんだとちょっと思うけど、本当にそう思っちゃったので、書かずにはいられない。

結局は、誰が誰を好きになるかは、分からないのだものねえ。

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