薩摩とロシアの意外な関係。世界初の露日辞書に馳せた故郷への想い
前回に引き続き、日本史と世界史の出会いの物語、漂流者シリーズです。
日本からの漂流者伝兵衛により
ロシアに初めての日本語学校ができてから約30年が過ぎた頃。
またまたカムチャッカ半島に流れ着いた日本人が首都サンクトペテルブルクの地を踏んだ。
1730年、日本は暴れん坊将軍で知られている第八代吉宗の時代。まだ江戸時代が続いている。
ロシアはピョートル大帝のあと歴代初女王が誕生し、この頃二代目のアンナが女王になっていた。
ピョートル大帝と伝兵衛の出会いによって切り開かれたルートは
ロシアに漂流した日本人のお決まりルートになった。
漂流者も、異国の地でまさか日本人の先輩に会えるなんて
どんなに心強かったかと思う。
1736年
ゴンザも、サンクトペテルブルクの日本語学校で日本語教師となった。
ゴンザは父ソウザと一緒の船で難破して、
ロシアに辿り着いた時、たった15歳。
科学アカデミーでロシア語を学び、日本語学校の監督をしていたロシア人、アンドレ・ボグダーノフの協力を得て、世界初の露日辞書が誕生した。
辞書を作る作業はきっとそれなりの語学力が必要だったのに違いない、ゴンザは15歳でロシア語を学び始めたというから、きっとネイティブ並みだったのではと予想される。
そんな世界初の日露辞書の和訳は、薩摩弁だ。
「燃やす」は「モヤカス(燃やかす)」
「労働でつかれること」は「ダルコト(だること)」
「魂をもつもの、生物」は「イキタモン(生きたもの)」
<<日本新聞より引用>>
ゴンザが15歳まで話していた故郷の薩摩弁が生き生きと伝わってくる気がする。
彼も他の日本人教師同様、ロシア正教の洗礼を受けて「デミヤンポモルツォフ」と名乗っていたそう。21歳の若さで亡くなったが、ロシアと日本の大きな架け橋を残してくれた大切な歴史上の人物である。
最後まで故郷に帰ることはなかったものの、こうして彼の薩摩訳は現代にもしっかり残っている。
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