今の野党共闘は果たして〈共闘〉の名に値するか?
11月16日に発表した先の記事(野党共闘は失敗か?)では、小選挙区での候補者の一本化という点に限って野党共闘の検証を行い、有効であると評価してきました。それは一つの結論ではあったものの、より広く野党の連携という意味で考えていくならば、まだまだ欠落が多いと言わざるを得ません。
野党共闘の分析については、もともと長い時間をかけて様々な角度から行うことが望ましいと考えていました。しかし11月9日、選挙前の議席を確保できなかった点について科学的な検証を行うことが立憲民主党の両院議員総会で発表されると、翌10日、連合の会長が会見で「議席を減らしたということは失敗だった」とする発言を行います。先の記事は、そうした状況の中で、先手を取って最低限の事実を提示することが必要だと考えて、急ぎ出した次第でした。
そのような即席の検証でありながら、多くの人に読んでいただけたことをありがたく思います。東京新聞、北海道新聞、中日新聞、西日本新聞の論壇時評でも取り上げていただき、議論が展開されてきたのも幸いです。各方面からの検証はさらに続くものの、焦点は野党共闘が失敗であったかどうかという点から効果の大小の評価へと移っていくのではないでしょうか。
しかしながら、しばしばいわれる「野党共闘を前進させる」「野党共闘を深化する」ということは依然として漠然としたままであり、具体的に何をどうするのかという議論に不足の感があることは否めません。
先の記事では、「ここでは選挙分析という観点から、候補者を一本化することを野党共闘と呼ぶ」とする限定を行っているのでした。したがって得られた結論は、あくまで一本化という狭い意味での野党共闘が得票率を伸ばす効果を発揮したという点に限られます。より広く野党の連携という意味で、「野党が共に闘う」こととして考えていくならば――つまり単に一、二回の選挙の得票率を検討するのではなく、「政策論議は前進したのか」「誰が当選し、何をやるのか」といったことに広く考えを及ぼしていくならば、そこには様々な問題があるように思えます。
ただ単に多くの選挙区で一本化できたなら、それは前進といえるのでしょうか。そうではなく、より内実を問題にする必要があるのではないでしょうか。本記事では、「立憲と共産が連携するのはいかがなものか」といった古ぼけた話ではなく、建設的に、野党共闘の現状に批判を加えることとします。
「穏便に仲良く」は共闘ではない
先の衆院選で候補者の一本化が効果を発揮したことはすでに見てきました。接戦区の増加も確かに事実でした。けれども政権交代までを視野に入れるのには、接戦区を競り勝つことではあまりに不足であり、与党が優勢な選挙区にまで食い込んで逆転をおこすのが不可欠となります。先の第49回衆院選では、共闘していなければ立憲はさらに議席を減らしていたということが明らかですが、共闘によって何とかそれが回避されたというのでは、あまりに迫力に欠けていると言わざるを得ないでしょう。
先の記事では、第48回衆院選(2017年)と第49回衆院選(2021年)でともに候補者が一本化されていた58の選挙区のうち、44で野党が後退していることを指摘してきました(図18)。これは、2回の選挙でともに一本化が実現している選挙区の比較なので、状況が悪くなったからといって一本化の効果が否定されるものではなく、むしろ全体的に野党が支持を失ったことを意味しているものです。
ここでいう野党とは、主に多くの統一候補を擁している立憲民主党のことですが、立憲民主党の支持率は第48回衆院選の時点と比べて第49回衆院選の時点のほうが低下していることが確実となっています。また、比例票は旧国民民主から40人の議員が合流しているのにもかかわらず横ばいです。共産党は、支持率はほぼ変化はありませんが、比例票を比べれば減っています。こうしたことについて、野党各党がきちんと政策論議を展開し、それを通じた支持拡大ができていたかを振り返ってほしいのです。
共闘というのは、皆で穏便に仲良くやるということではありません。各党は激しく意見を戦わせてもよいのです。例えば立憲と共産のあいだでも、立憲側は共産のここが駄目なのだ、それに対して我が党のここがいいのだと主張する。また共産側も同様のことをする。そのうえで選挙に臨むときには、ここでは我が党は擁立せずに協力しようということがあっても構わないはずです。小選挙区はそうしたことを必要とする選挙制度なのですから、それは何ら矛盾ではなく、欧米などの類似の選挙制度を導入している国でも当然のごとく行われていることでしかありません。
各政党の固有な政策は、必要だとみなされているからこそ掲げられているはずです。野党共闘をするためにといって、野党間が波風を立てないように主張を引っ込めてしまうなら、各党のカラーは曖昧になり、論争を通じて問題意識を研ぎ澄ませたり政策を鍛える機会を失ってしまうでしょう。切磋琢磨した成果をもって与党と対峙するということは、選挙戦術とは別の、もっと長い目で見て影響のある、そして本当はより根底的なものに関わっているこです。それは政党や政治家が自らを鍛えることであるとともに、支持者や有権者をたがやすということでもあるからです。
曖昧な共闘が力を発揮するわけがない
先の衆院選のとき、立憲民主党はシャドーキャビネットを示すべきだという意見がしばしば見られました。つまり、政権交代を掲げるのなら、政権を取った際の内閣のメンバーを示した方がよいだろうというわけです。けれど立憲は消極的で、ついにそれを示すことはありませんでした。おそらく、立憲のみで閣僚名簿を作れば共産、社民、れいわ各党の支持層から反発を招き、逆に共産などを名簿に含めれば連合の反発を招いて票がまとまらなくなることを懸念したのでしょう。
そうした懸念は確かにわからないでもありません。しかし共産党など各党との協力をどの程度の範囲にするにせよ、政策協定をきちんと結んで、それを逸脱しないということを明確にするべきだったのです。例えば日米安保については、立憲と共産の立場には隔たりがあります。そうした点があったとしても、立憲が政権を取った際に実現が目指せる合意点と、ここから先は食い違うので認められないという点が明確にされ、協定として示されたうえで支持者や有権者が投票しているというのであれば問題はないはずです。例えば共産党系の大臣がいても、行われる行政が野党間の合意に基づく範囲であることが明確であるならば構わないわけです。あるいは共産党は政権に入らないのだとしても、合意した範囲の政策を、立憲民主党が与党として実現すればよいわけです。こうしたことを明確にするのが、支持者や有権者に向き合う際に誠実な姿勢といえるのではないでしょうか。
野党間の政策協定が結ばれて、それが順守されるのでないならば、共闘は肝心な点がいい加減になってしまいます。期待だけ与えておいて、後から曖昧にするようなことがあるならば、共闘は共闘の名に値せず、むしろ失望を生んでしまうでしょう。
立憲民主党の新代表となった泉健太氏は、11月30日に選挙後の政策協定について「衆院選が終わったら、全てちゃらにしますとは、合意文書には書いていない」との指摘を受けた際、「書いていないから順守ということではない。党内にも、選挙の時に結んだものだから選挙が終わった時点で一定の役割を終えているとおっしゃる方もいる」との回答をしています。
こうした主張を党代表がするならば、次の点を指摘しておく必要があるでしょう。
有権者が野党統一候補になぜ票を入れるのかということを少しでも考えてみるならば、そこには合意があり、協定があり、その協定を体現する候補者が、当選後はその制約のもとに活動するということがあるからにほかなりません。そうしたことが期待されるから人々は支持を曲げてでも統一候補に投票しうるのです。そのようにして投票した人がいる以上、あれは選挙で多く当選させるために行った合意であり、選挙時までの話し合いにすぎなかったのだというような言い方をするのは、共闘を非常に矮小化する詐欺的な振る舞いにほかなりません。また、こういった認識のもとに行われる候補者の一本化の効果を考えてみるならば、それはただ自らの支持政党が候補者を立てていないからとして行き場をなくした票が集まる程度にすぎないのであって、政権を交代するなどという勢いが出ようはずがありません。
肝心な点が曖昧にされた共闘で票をやりとりしたところで、決して有効に力が結集されることはないのです。
野党共闘を前進させるとは
選挙後に反故にされる余地があるようなものは共闘とはいいがたく、信頼を得ることにも支持を結集することにもつながらない、「ただうちの支持政党の候補者が出ていないから」一本化された候補に一定の票が集まっているのに過ぎないのでした。それではこれを今後どのようにしていけばよいのでしょうか。複数の政党の候補者がいるなかで、一人に統一して他をおろすという合意はどのような形で作られるべきなのでしょうか。
例えば候補者と支持者が一堂に会し、さまざまな政策・争点をめぐって議論することを通じて、立ち位置を表明することは有効であるはずです。文章として取り交わしているならばそれを配布し、質疑応答に臨むといった形でも良いかもしれません。動画として残せば選挙後に記録となって残るばかりでなく、地域の有権者に訴えることにもつながります。この政党はこんなに透明なことをやっているというのが広がれば、全国的な反響もおこるでしょう。「この選挙区はこんな議論をしている」「こっちの選挙区ではこんな議論をしている」ということが伝われば、優れた候補に全国からの注目が集まります。こうしたことは支持者や有権者をたがやすということにも直結するはずです。一本化においては一つ一つの選挙区でそうしたことを行い、実現したところから候補者をおろしていくわけです。できないところでは、候補者はおろしません。
今のような曖昧な共闘を続けるのであれば、例えば共産党は候補者をおろすことによって比例票の拡大の機会を失うばかりでなく、政策面で整合しない、立憲の右派の議員にも消極的に票が回ることを結果します。そうして自公の議席はいくらか減少するかもしれませんが、他方で起こるのは立憲の右傾化です。また、そうして立憲が維新に対する批判をゆるめるのなら、維新の伸長も招くことでしょう。立憲の政治家の中には、改憲に部分的に賛成するという政治家が少なくありません。もし今後、改憲をめぐって国会発議の段階に至ったとき、共闘で誕生した政治家が賛成票を入れるということになったら、共産党はどうするのでしょうか。これは、そのようなことはないと言ってもだめなのであって、必要なのは「保証」です。こうしたことについて、共産党など野党各党は、選挙のたびにきちんと明確化していかなければならないのではないでしょうか。
繰り返しますが、小選挙区において候補者の一本化は有効です。けれどもできるだけ多くの選挙区で一本化に持ち込むということは、野党共闘の前進でも何でもありません。政策協定をきちんと守っていくということが今の立憲のガバナンス上むずかしいというのであれば、共産も、社民も、れいわも、それぞれ自らの眼鏡にかなう候補にだけ協力する以外にないというのが回答になるはずです。そして立憲の側は、言うまでもなく、できるだけ多くの協力を得るべく党のガバナンスをきちんとするということが重要です。
なお、立憲の党のガバナンスに少し言及するのであれば、立憲は生起する様々な問題について曖昧な態度をとることが多すぎます。本多平直氏の離党をめぐる問題(関連記事① ② ③)にしても、横浜市長選の候補者をめぐる説明にしても、東京8区の一本化の過程で生じたトラブルにしても、あらゆることが曖昧にされています。政党が信頼を得るには、最低限、生起する問題についてきちんと説明する姿勢を持つことが必要です。
また野党共闘が信頼を得るという点に関しても、候補者調整をめぐって生起する問題を党がきちんと説明することは重要です。例えば東京8区では、吉田晴美氏(立憲)と山本太郎氏(れいわ)の擁立をめぐってトラブルが起こりました。結果は、統一候補となった吉田晴美氏が石原伸晃氏(自民)に勝利するという成果をあげたわけですが、もしもあの時、立憲とれいわの双方が呼応しつつ、有権者に対して「私たちはこうしたのだ」ということが説明されていたならば、あの勝利は鮮烈な印象を与えたし、全国の野党支持者を勇気づけたことでしょう。
そうした一つ一つのことが大きな影響を与えうるのだということを意識し、説明責任を果たすということを行っていけば、人々の野党に対する見方は大きく変わりうるはずです。何か問題が起きたとき、それがきちんと説明されるのだとなれば、これからもそのようにきちんと説明していくのだと支持者や有権者は思うでしょう。けれど逃避し、ごまかし、きちんと説明しなければ、これからも共闘には欺瞞があり、その暗い部分は伏せられ続けるのだと思うでしょう。
説明をないがしろにして、様々なことをあいまいにしたまま票を集めるというのでは、支持者や有権者を軽んじていることにほかならないのだということを、政治家はきちんと自覚するべきです。
「我々は何のために闘うのか」
なぜ、曖昧でいいと考えているのか。なぜ、きちんとしたガバナンスがされないのか。なぜ、いい加減な共闘がいい加減なまま行われているのか。それは、いま日本がどのような問題を抱えており、それと向き合うのにはどのような姿勢でなければならないのかということが自覚され、それに応じた内実を持った闘いがなされていないからにほかなりません。
30年にもわたって実質賃金が低下し、日本が貧しく、暮らしにくく、国際的にも競争力のない国になったのは、バブル崩壊以降の政治の失敗が今もなお続けられているからです。その政治はつまり、地方を犠牲にし、ロスジェネ以降の若者を使いつぶし、バブル以前の昭和の貯蓄を切り崩すという形で行われてきた、いわば社会の延命です。この二年弱のあいだ、コロナをめぐって照らし出されたのはその結果の一面にほかならないのです(関連記事① ②)。
日本はこのままでは衰退が止まらず、今後はさらなる歪みが剥き出しになるでしょう。その剥き出しの歪みを前にして、自民党は改憲などを経て、強権的に国民を統制する姿勢をとろうとしているわけです。しかしそれは今の日本が抱える人口問題にしろ、地方の衰退の問題にしろ、教育・子育ての問題にしろ、何ら根本的な解決をもたらす道ではありません。それとは別の、過去の30年の衰退と向き合っていくことからしか開けない道があるはずです。
ですから野党は、単に政府与党が行っていることがいかに駄目なのかということ指摘し、それを正そうと主張するだけでは不足なのであり、この30年の政治を根こそぎひっくり返そうとしていかなければなりません。自公が描いてきたものとは別の社会のありかたを示し、政治をそのように転換しなければ生活をよくすることはできないのだと訴え、そのためにこそいま我々は共に闘うのだということが言えないのならば、共闘はただの党と議員の延命としての選挙協力にとどまるのみとなり、勢いを持つことはないでしょう。
先の衆院選では、確かに野党共闘の成立した選挙区で現職の自民党の幹事長(選挙時)や複数の閣僚経験者が落選となりました。それをもって、与党側が野党共闘を恐れているという主張が見られます。けれども言い換えるなら、現状の野党共闘は接戦区を多く作り出すことしかできておらず、接戦に持ち込まれたところが確率的にどうなるかという程度の威力にとどまっているわけです。与党が恐れるとしたら、共闘が日本の問題をえぐりだし、大きなうねりとして広がっていくことで、そうなってはじめて接戦区をおさえ、与党が優勢なところまで飲み込んでいく可能性があるのです。
逆に共闘がただ選挙時に候補者を絞ることによって行き場をなくした票を集めるという程度の協力にとどまり、活発な議論や、支持者・有権者の希望を削ぐことがあるのなら、それはむしろ野党の劣勢を固定化するメカニズムともなり得ます。議席バランスは硬直し、選挙のたびに自公維は3分の2を握り続け、一つ一つのことが押し切られていくことは止まりません。そのなかで、対抗したけれども押し切られたという姿勢を見せて乗り切るつもりの政治家もいるのかもしれないですけれど、現実の未来はそのように諦めがつくものではありません。
有権者が、未来は変わり得るのだという希望のもとに一票を投じる。そのような選挙が共闘を通じて実現できないのであれば、それはすでに敗北しているのだと、ぼくは考えます。
2021.12.05 三春充希