見出し画像

未来はまだ変えられる――野党はコロナが照らし出した日本の根本問題と向き合え

 総裁選にともなって自民党の支持率が上昇を始めました。新政権が発足すれば内閣支持率もまた大きく上がるでしょう。任期満了まで間がないため、今回はそのまま衆院選を迎えることになりそうです。

 けれども総裁選はいち政党の内部の事柄にすぎないのですから、本来ならばどのような総裁が選出されたとしても、それと対峙できるような内実を野党は打ち出していかなければなりません。コロナを前にして国民がおかれた現実はまるで変化していないのです。日本が抱える様々な困難についても同様です。少なからぬ人たちがこれまでの自公政権とは違う政治がありうるのではないかということを思い浮かべているはずです。ある人は生活の厳しさという実感から、ある人は命が守られないという局面の中から、そしてまたある人は諸外国の医療や生活の補償の手厚さを横目に見て、そうして今の日本はおかしいと、それぞれの人なりに感じるものがあるはずです。

 それは動きうる要因です。自公が描いてきたものとは別の社会のありかたを示し、政治をそのように転換しなければ本質的に生活をよくすることはできないのだと訴えていけるのなら、今こそ情勢が大きく動きうる時期だともいえるのです。自公政権の総括こそが次期衆院選の争点なのだと言い張ったところで、今の政治に違和感や否定感を抱く人たちに希望を見せられるわけではありません。いくら内輪向けの政策を掲げたところでそうした人たちの心をゆさぶれるわけではないのです。

 今の社会をこうするべきなのだという説得力のある主張ができず、場当たり的な政策を並べて見せるだけならば、支持率の上がった与党にも票が分かれ、また維新など第三極に票が分かれ、結局、情勢はわずかしか変えられないで終わってしまうでしょう。それはすなわち選挙の敗北を意味しているわけです。

 今、ぼくは野党の振る舞いや政策提言を見ていて、問題意識が狭すぎるのではないかということを大いに懸念します。そこで今回は、野党が置かれている状況や、いま向き合わなければならないものは何なのかということについて書くことにしましょう。


社会の姿を描き出すということ

 野党に課された役割として、これまでの自公政権の総括や検証をすることは確かに重要です。けれども今の野党が政権を担うことを考えるのであれば、あるべき社会の姿を描くということを避けては通れません。

 コロナを例に挙げるのなら、コロナと闘う社会の姿はどのようであるべきなのかという問いに答えることが不可欠です。そしてそれを根底において、限りある社会のリソースをどうすれば有効に使えるのか検討し、物事を組織するわけです。そうした政策がうまく機能しなければ市民の生活をよくしてはいけないし、感染症に際しては命が失われることをも結果してしまうのです。

 コロナが出現した際、政治がなすべきだったのはどのようなことだったと考えられるでしょうか。それは、この感染症によって生じる打撃を皆で受け止め、危機に対応するようにお金と人を動かして、困難に立ち向かう社会を実現していくことでした。けれども自公政権はそれを満足に行わなかったばかりか、感染のリスクをはじめとして、生じる様々な困難を個人の側に押し付けてきました。

 生活が保障されなければ人々は働きに行かざるを得ません。しかし他方で検査体制が不十分な状況下では、感染の疑いがあっても検査が迅速に受けられるとは限りません。感染が明らかになった際の入院も難しい状況で、多くの人が自宅にとどめておかれました。そうした現実をうかがいながら、人々は感染したらどうしようもないのだと思いつつ、あるいは大して危険はないのだと自分をごまかしつつ、職場や学校に行ったのです。

 本来であれば、社会を構成する誰か個人が困難に陥っても、安心して来るべき日に力を発揮できるよう、健康や生活を守っていくことが当たり前に行われるべきであるはずです。こうしたことは個人を守るだけでなく、社会を疲弊させないために必要であるわけです。日常の通学や通勤が行われる一方で医療は危機的なほど逼迫し、感染したらどうしようもないという、あたかもロシアンルーレットのようなことをいつまでも続けているような社会は崩れていくということです。

 今回コロナが浮き彫りにした日本の危機的な状況は、なにもこの一年半で始まったわけではありません。バブル崩壊から30年にわたって、日本の様々な局面で不合理が不合理を生むような政治が行われてきてしまいました。感染したらどうしようもない、貧困に陥ったらどうしようもない、社会から転落したらどうしようもない――こうしたことは今の日本における同根の問題といえるでしょう。こうした困難を個人の側におしつけて「自己責任」だとか「自助」だとか言って開き直るのは政治とはいえません。

 社会の根底は人間が力を発揮するということにあるのですから、一人一人が力を発揮できないような社会は衰退する一方となります。特に次の点が恐ろしいのですが、30年というのは世代交代に値するほどの長い時間であるがゆえ、新人からベテランまでが入れ替わってしまい、会社も役所も学校も何もかもが機能不全に陥りつつあるのです。

 現代の私たちに課せられているのは、この機能不全に陥った社会の立て直しという作業です。それはつまり、困難を個人に押し付けて切り捨てるのではなく、力を合わせて様々な困難を受け止め、支えることのできる社会の姿を再び描き、具体的な政策によってそれを機能させるということにほかなりません。


政治の役割と自公政権の失敗

 私たちの社会には、様々な事件や災害が起こります。人口問題や少子高齢化といった長い時間での変化も起きています。そうした変化に対応しつつ、一人一人が力を発揮できるような環境を作っていってこそ社会は発展するのであり、本来はその采配をするのが政治の役割です。そのために使うべきお金を使い、人々を動かし、様々なリソースを組織して「必要なもの」や「しなければならないこと」に対処するわけです。時代や状況が変われば「必要なもの」や「しなければならないこと」は変化しますから、それに応じて、お金の流れ、人々のあり方、産業のあり方などをシフトすることが様々な場面で行われなければなりません。

 例えば高齢化という変化が起こるなら、介護の施設を作るためにお金を投入することや、介護の人手を増やすことなどが必要となるわけです。技術の進歩という変化ではどうでしょうか。新しい技術が出現し、古い技術が廃れるといったのは良い変化であるように見えますが、それに応じて技術の担い手を育成したり、新たな技術を産業で生かしていけなければ国際的な競争力を失うことを結果します。

 このように考えていくと、コロナの出現も特別でないことが明らかになってきます。ここでも必要なのは新たな変化に対応するよう、お金や人や産業をシフトすることにほかならないからです。コロナの出現によって、病床、ワクチン、人工呼吸器などの「必要なもの」が変化しました。また、検査、看護、治療といった「しなければならないこと」も変化します。こうした「もの」や「こと」に対して、私たちの社会の持てる力を以前より多く、適切に振り分ける必要があったのです。

 しかしながら現政権はこうしたことを臨機応変に行えませんでした。その結果、医療関係者のボーナスは下がり、感染のリスクや余りある負担のために仕事を続けていけない人が続出してしまいました。コロナの患者を受けれていた病院が経営悪化で倒産してしまいました。病床は不足しています。こうしたことは、本来あるべき対応とは真逆であると言わざるを得ません。新たな変化にあわせてお金や人や産業を適切にシフトできないのは政治の失敗であり、その結果として一人一人の力が発揮されなくなるならば、社会に損失がもたらされてしまうのです。

 30年にもわたって実質賃金が低下し、日本が貧しく、暮らしにくく、国際的にも競争力のない国になったのは、これと同様の失敗が1990年代初頭のバブル崩壊以降、30年にもわたって続けられてきた結果にほかなりません。

 バブル崩壊で打撃を受けた経済を回復させるために政府が行ったのは、打撃を被った産業を転換していくことではなく、国の資金を投下して、ゼネコンや自動車などの従来通りの産業を守っていくことでした。バブル崩壊以前に築かれたものを守ることによって、かえって産業の形は歪められてしまいました。大企業がそれを求めて自公政権がそれに応えてきたわけですが、大企業もまた国のお金で安易に守られてきたがゆえに、技術革新の能力を30年かけて衰退させてしまいました。不可逆な変化をする世界の中で、やがて日本は取り残されていったのです。

 またそれと並行した行われた雇用の非正規化は、一人一人が力を蓄え、働きやすい職場で力を発揮するという環境を破壊してしまいました。仕事を得られずにさまよう人たちがいる一方でブラック企業が野放しにされ、就職難と過労死が同時にもたらされるという倒錯した事態を起こしました。様々な歪みがロスト・ジェネレーション(失われた世代)以降の若者におしつけられ、「自己責任」として切り捨てられていったことは今の政府のコロナ対応のあり方と不可分ではありません。


困難を支えられる社会とは

 それでは、力を合わせて様々な困難を受け止め、引き受けることのできる社会の姿とは、具体的にはどのようなものでしょうか。例えばコロナと戦う社会の姿はどうでしょうか。先に述べたように、今まで日本では「感染したらどうしようもない」という状況の中で通勤や通学のロシアンルーレットが行われていたのでした。

 これをどうするのか、第一に仕事について考えてみましょう。これまで野党はたびたび「自粛と補償はセットです」ということに言及してきました。「お金を配ってロックダウンすればよい」という主張も見られます。

 けれども具体的にこうしたことを政策として実行に移すならば、どのような業種を自粛させ、どのような業種を継続していくのかということを具体的に検討することが必要です。この社会において、人々は多種多様な生産と消費を行って生きています。ですから単に自粛と補償といっても全てを同じように行うわけにはいきませんし、ロックダウンといっても全ての活動を止めてしまうわけにはいきません。

 働き手の一部は社会を支えていくために必要です。例えば必需品の生産や流通に携わっている人は危険をおかしてでも職場に行かなければならない場合があるでしょう。電気、ガス、水道などのインフラに携わっている人も同様です。こうした人たちを職場へ運ぶために交通機関も動かさなければなりません。これに対して、急を要さない、必需品ではない仕事に携わっている人は、家にとどまっていいはずです。

 具体的にそうした個々のケースについて対応がなされなければなりません。市民の生活に必要不可欠な仕事を残しつつ、そうでない仕事を感染がおさまる水準になるまで一つ一つ畳んでいく。畳んだものを補償する。そして感染がおさまった後に再開する。再開するためにこそきちんと補償して支えていく。こうした対応を通じて人出を抑制すれば、必需品やインフラに関わっている人が通勤する際のリスクを軽減できるでしょう。人出の抑制の程度は感染の厳しさに応じて定められるわけです。こうしたこと全体が政策として考案され、実現されなければなりません。

 第二に教育について考えてみるならば、これもまた個々の場合があるのは同様です。オンライン授業でも問題のない子がいる一方で、家で面倒をみてもらえずに居場所を学校に求めるしかないという子供たちもいます。一律に授業を強行することもおかしいし、一律に休校にするということもまた乱暴すぎるのです。

 家に家族がいるような子は、必要となれば速やかにクラスから離れることができるでしょう。家に家族がいるけれどパソコンや回線がないような場合は、それを補助する対応をすることで教室の密度を下げることができます。そして家に居場所がないような子ができるだけ安全に、感染の状況をうかがいつつ最後まで教室に来られるようにするのです。

 もっとも、本当にこれを実現するとしたら課題は多いでしょう。生徒と教師の負担も増加します。しかしその点は負担を減らすべく、文科省がカリキュラムを再編すればよいわけです。これまでもコロナで授業についていけなくなった子供は続出していますが、それも本来は社会で引き受ければよいのです。例えばこの時代の小学生はこの部分が抜けているけれども、それはより上級の学校で、コロナが終わった後に補うようにしようというふうに、その時代の困難を生徒に押しつけるのではなく、社会全体で受け止めていくわけです。

 仕事の例にしろ教育の例にしろ、一律に、強引にという声が上がるのは、社会が柔軟性を失ったからにほかなりません。けれどもそうした対応では、細部がないがしろにされ壊されていきます。生活を守る丁寧な対応が政策として実現されなければなりません。感染が広がれば社会が困難におかれることは仕方がありませんが、その困難は社会全体で受け止めて、支えていくことができるはずなのです。

  以上はコロナに関する話でしたが、こうしたことは経済政策でも、少子化対策や高齢化対策でも、年金や社会保障でも、原発やエネルギー政策でも、社会のありとあらゆる面で同様です。困難を特定の職業や特定の世代に押し付けたり、切り捨てたりする政治は、政治の名には値しないのです。

日本の根本問題と向き合うことなくして未来を開くことはできない

 社会には慣性がありますから、たとえ政権をとったとしてもただちには変わりません。今の日本は子育てや教育が破綻しつつあります。危機的な人口問題も抱えています。こうしたことを立て直すには、少なくとも義務教育の修了までで15年、人口問題に至ってはさらに長い時間がかかるでしょう。安倍政権以降10年かけて壊されてきたものは、10年かけなければ再建しえないかもしれません。バブル崩壊以降30年かけて壊されたものを回復するには30年かかるかもしれません。(特に人口問題は極めて重要なので次の記事を参照してください。「人口崩壊の全貌――今後、日本の少子高齢化は別次元の恐ろしい姿をとる」)

 これまでの自公政権は30年に及ぶ日本の衰退を、バブル以前の貯蓄を切り崩すことによってごまかし、延命してきたわけですが、今後はそうしたことも限界に達します。今後の新たな政権は、これまでよりも生活が悪くなっていくことが確実な局面と向き合って、社会を再建することが課せられるわけです。その時に、それに値する社会観を持ち合わせていなければ、悪くなっていく社会を前にして場当たり的な政策を連発し、右往左往したあげく自壊してしまうでしょう。

 今の日本が抱えている問題は深刻で、「何事か」をすればただちに改善がみられると言うことはできません。例えば消費税を下げるということに一定の意味はあるのかもしれませんが、そうした何か一つのことで社会が良くなるのだというふうに描き出してしまうのなら、維新は「ベーシックインカムをやれば」と言い始め、自民は「デジタル化すれば」、「憲法を変えれば」などと言い始めることでしょう。政策はいかようにも言うことができます。しかしこの社会の問題は複雑に絡み合っており、思い付きでいじりまわしても解くことはできません。むしろ安直な政策でいじりまわすほどその反面として損なわれるものがあり、社会の基盤は壊されてしまうのです。

 もちろん内容によっては、その「何事か」は一つの手立てであるとは言えるかもしれません。けれども手立ては、これもある、あれもある、それもあるというもので、複雑な社会を立て直すにはあらゆる手立てを総動員することが必要です。なぜなら今の日本では30年の衰退の結果、人口が崩壊し、教育が崩壊し、家庭では子供を育てる力が失われ、職場は柔軟性をなくし、産業はバランスが狂い、技術革新が後れをとり、行政が機能不全に陥り、政治が信頼を失うということが一斉に噴き出しているからです。社会が硬直し、様々なことが機能不全になっている――その結果生じる不利益を個人に押し付けて開き直っている現政権の態度は論外ですが、今のコロナの対応のまずさは、日本の根底にかかわるこうした問題と不可分なものなのです。

 この日本の根本問題と向き合わなければなりません。少なくともこの一年半、コロナは日本の姿を照らし出したのです。多くの国民がその姿に愕然として、今の政治に違和感や否定感を持ったのです。自民党はコロナを利用して、国民を強権的に統制する道を進もうとしています。しかし以上に述べた問題の根深さゆえに、そのようなことで日本の状況が好転すると考えているとしたら全くの間違いです。過去30年の衰退は政治の結果に他ならないのですから、このままの自公政権を続ける限り、その衰退はこれからも続くでしょう。それを転換し、また別の道を切り開かなければなりません。機能不全に陥った社会を立て直さなければいけません。それができなければ私たちは必ず後世の人たちから非難されるでしょう。

 野党のみなさん、そのためにこそ我々は共闘するのだと言わなければならないのではありませんか。我々はこういう社会の姿を描くのだということを国民に示さなければならないのではありませんか。

 これは問いかけなので、これに対して、我々は決して場当たり的な政策を並べているのではない、我々はこのような未来を示すことができると野党の皆さんが思われるならば、それを世間に示していただければと思います。反論の形で下さっても構いません。それが希望の原石となることを期待します。

2021.09.14 三春充希


関連記事

Twitter : 三春充希(はる)Mitsuki MIHARU
Facebook : 三春充希(みらい選挙プロジェクト)
note: みらい選挙プロジェクト情勢分析ノート