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少年少女の人権はいかにして守られるか――立憲民主党・性犯罪刑法改正ワーキングチーム問題(本多問題)に関して

 立憲民主党の性犯罪刑法改正に関するワーキングチーム、およびその周辺における一連の問題について、これまで以下の二つの記事で主に手続き論の観点から批判してきました。

これは政治的事件である――立憲民主党の本多議員をめぐる調査報告書の問題について
立憲民主党は事実関係の解明を――本多議員をめぐる一連の問題について

 言及すべき事柄は多岐にわたるものの、7月27日に本多氏が立憲民主党から離党しているため、氏の処遇をめぐる点は過去のものとなっています。しかしながら、ぼくはこの一連のできごとが終結したとみなしてはいません。政党や個人がどのように物事をとらえ、議論し、行動していくかということを考えるうえで、本件は依然として重要な意味を持つものと思われるからです。

 ぼくは本多氏の離党と辞職の後に、国会議員を含む複数の政治家などから連絡を受けました。そして本件をめぐっては立憲民主党の内部でも意見が分かれており、強引な処分に反対する意見があがっていたことを知るに至りました。また本件について、党に深い禍根を残すものであり、状況を立て直すためにどうしたらよいかという相談ももらいました。こうした連絡や相談に、この場でこたえたいのです。

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 今回、性犯罪刑法改正が議論にのぼったことの背景には、近年、恋愛であるかのように偽装した詐欺的な恋愛が行われ、若年女性が被害をこうむる事件が多発しているという問題があります。かつて恋愛だと思っていたものが実はそうではなく、あのとき人権が侵害されていたのだということを大人になった被害者がはじめて知るような場合も少なくありません。こうした問題へのフェミニズムの人たちの警鐘は意味のあるものですし、問題に対処するために何らかの議論を加えなければならないのは当然といえるでしょう。しかしながら立憲民主党のワーキングチームでは、その議論が性交同意年齢の引き上げという結論ありきのものとされてしまい、議論の深化がまるで行われず、そればかりか引き上げに慎重な立場をとった議員の政治生命を絶つに等しいことが行われてしまいました。

 今までの記事では、主に手続き論の観点からその過程を批判してきましたが、今回は「社会をどのようにとらえ、どのように対応していくのか」というより深い部分に踏み込んでいきます。直近では感染症が深刻な状況にありますが、ここで書くことは政治の根底に関わるものなので、本当は感染症への対応を含むあらゆる場面に通じる内容です。

 先に述べたような若年女性の性被害が頻発しているという指摘を受けて、まず議論されるべきなのはどういったことでしょうか。それはただちに法規制をするいうことではなく、若年女性が性被害の場へと踏み出してしまうのにはどのような背景があるのかということです。それは日本の社会が、家庭、学校、地域、親戚、行政というあらゆる場面で、子供を守り、育てる力を無くしていることの反映であるわけです。そのことを概観するために、ここで児童相談所への相談件数の推移を見てみましょう。

児童虐待相談対応件数

 児童相談所への相談には、ネグレクト、身体的虐待、心理的虐待、性的虐待といった様々なカテゴリーがありますが、上の図はそれらすべてを合計したものとなっています。急激な増加に驚かれる方も多いかもしれません。もっともこの増加には、警察からの相談が増えていることや、法改正にともなって児相の運営状況が変化していることなども関わっているため、虐待等の増加が直接的に反映されているわけではない点に留意が必要です。しかしながら、これほど急激に増加の一途をたどっているのには相応の背景がうかがわれるものです。つまりこうした急増は、子供を守り、育てるということが日本の社会ではできなくなりつつあるという現実の一端があらわれたものであるはずです。

 広く知られているように日本における出生数は減少の一途をたどっていますが、子供をつくれなくなっていったということに先立って起こるのは、すでに生まれた子供をきちんと守り、育てていくことが難しくなるという段階です。もちろん出生数の減少そのものは欧州や韓国などでも起きていることに違いありません。しかしながら、日本の出生数の減少がそれらとは別格の問題をはらんでいることはいくら強調してもし過ぎることはないのです。

 日本はバブル崩壊(1991~1993年)の後、終身雇用の崩壊、労働者の権利の後退、非正規化の進行などにより、若者が安定した雇用のなかで子育てをすることが困難になりました。かつては技術を身につけて徐々に収入が上がっていくことが当たり前だったものの、技術を蓄積し、力を蓄え、活躍するという機会は非正規化によって失われていったのです。また正社員であっても、仕事に追われ、奨学金の返済に追われ、さらに実質賃金の低下によってゆとりをなくしました。こうしたことは欧州各国や韓国のような、継続的に豊かになっている国々で起きている少子化とは別物であると理解する必要があります。

 こうした中で、日本では子供を養育する力を失った家庭の急増が起こりました。以前の親世代がじっくりと子供を育ててきたようなゆとりが失われ、親が十分に子供と接することが難しくなったのです。他方で学校の先生も忙殺されており、家庭の事情に踏み込んで何らかの援助をすることが難しくなっています。地域のつながりが薄れている点は言うまでもありません。親戚はというと、前に「人口崩壊の全貌」で論じたように、都市と地方で世代が切り離されがちになる問題があり、少なからずばらばらになっています。そして行政は、先の児童相談所のグラフのように加速的に増える相談の前に圧倒されているわけです。

 こうした状況下にあって、物質的にも精神的にも満たされない特に厳しい状況におかれた子供たちは、自分の力でどうやって生き延びれるのかを考えるよりほかになくなります。家庭も学校も何もかも助けにはならないとなったら、あとは社会に踏み出していくよりほかに道は残されていません。その社会は何かを渡さなければ何かを受け取ることはできない仕組みでできています。そうやって少年少女が危険な場面へ送り出されていってしまうのです。

 性交同意年齢の引き上げや厳罰化という流れには世界の風潮があり、欧州などでも順次そうなりつつあるため、その趨勢に合わせるということは確かに必要となるのかもしれません。しかしながら、これまで述べたような日本における特殊な背景に考えをおよぼすとき、性交同意年齢を引き上げるとして、あるいは厳罰化するとして、それで何が、どれほど、どのような方向に変わりうるでしょうか。それが果たしてこの社会の少年少女があえぎ苦しんでいる状況を良い方向へと動かしていくでしょうか。大きな疑問があると言わざるを得ないのです。

 確かに法改正も一つの手立てであると言うことはできるでしょう。けれども以上述べたように、この問題は今の日本社会の深部から湧き上がっているものなので、議論するべき事柄は広範におよびます。既存の法律に穴があるというときにも、その穴はどのようにしてできたのかと、この日本社会の深層で起こっている構造の変化を考えることが不可欠になります。3、40年前はまだ少年少女は社会の中で守り育てられてきていました。いま子供をめぐる問題が噴出しているのは、かつてあった力が社会の様々な場面で損なわれた結果にほかならないわけです。

 ですから近年増加する新たな性被害に対応するために法制度を変えるのだとしても、そうした性被害がなぜ生まれるのかという根拠をきちんと掘り下げ、子供たちが必要なケアを受けられていないという現実と向きあわなければなりません。既存の法律で対応できないような現実がなぜ生み出されてしまったのかを考え、その現実の歪みが生み出された理由を検討し、解決を目指すということを全く抜きにして、法の領域に手を加えれば解決するかのように考えているとしたらそれは間違いです。

 今の日本社会では、多くの少年少女の人権が現に損なわれ続けています。この社会から子供を守り、育てる力が失われた結果、彼ら彼女らが自分を一人前の人間へと、力の満ちた人間へと自己を形成していくことが実現できなくなったのです。必要な物や、必要なことが満たされないがゆえに、彼ら彼女らは危険をおかして社会に踏み出していかざるを得ない状況に追いやられてしまうのです。これは政治の責任です。このことは全ての政治家につきつけられている問題です。

 これは、子育てする世帯にお金を出す、教育にお金を出すといった思い付きレベルの対策では何ら見通しのつけられない問題です。この日本社会を社会として維持し、次世代に引き継いでいくことが失敗しているという問題が根底にあるからです。あるいは自民党や日本会議なら、かつての日本らしい家庭のあり方を取り戻さなければならないとでも言うのかもしれません。しかし人口問題が不可逆であるがゆえに、それは全く実現可能性のないことだと言わざるを得ません(「人口崩壊の全貌――今後、日本の少子高齢化は別次元の恐ろしい姿をとる」参照)。

 家庭も、学校も、地域も、親戚も、既存の行政も、子供を守り、育てるという力を失ってしまっている――そうした中でどのような仕組みを作り、損なわれている人権を回復していくのかということが政治の課題として照らし出されます。子供の人権を守っていくためには、最低限、この程度の水準の議論が行われることが不可欠であるはずです。

 政党に対しては、様々な団体や支持者が要求を持ち込みます。その要求は、各団体や支持者の立場、思惑や問題意識に基づいているものです。例えばフェミニストの問題提起は少女の人権を守らなければならないということに意識があるのでしょう。しかし少女の人権が危機にさらされている状況がなぜ近年拡大し、社会問題化したのかということを分析すれば、向き合わなければならない根深い問題があることは以上のように明らかです。そしてその根深い問題を解決しなければ少女の人権が危機にさらされる状況を元から防ぐことはできないということもまた明らかであるわけです。

 団体や支持者から要求を受けたとき、政党や政治家はその要求を直接実現すれば社会にとってどのようなプラスとマイナスがあるのかを考えるのと同時に、それが本当はどういう別のより深い問題を照らし出しているのかということに踏み込んでいく必要があります。そして安易に要求に迎合するのではなく、我々はこう考えているんだということを示し、ともに議論を深めようという姿勢を持つ必要があるはずです。これは様々な団体の様々な要求、様々な圧力、そして内部の暗闘から、党の理念を守り、その質を高めていくということにもかかわる問題です。未来に希望を抱けるような理念がはじめからあるわけではありません。それは党の内外との議論によって、磨き上げられていくよりほかにないものです。そしてそれはまた、可能性でもあるのです。

 政治に関わり続けていると、権力をめぐる抗争に追われたり、票や資金にあくせくとして感受性を失いがちになることもあるのでしょう。けれども政治家は、この社会の中からもれてくる悲鳴や泣き声に耳を澄ませていなければなりません。今ある社会を変えなければならないと思うのは、悲鳴や泣き声を聞くことができるからにほかならないためです。もっともこの社会の歪みは複雑に絡み合っているがゆえに、解決することは容易ではありません。 そこで社会をより良い方向に変えていくためには、思考や議論を通じてこの社会の構造を捉える必要があります。そうした議論なくしては、自公のこれまでの政治に対峙する基盤を獲得することは実現しないでしょう。あるべき社会の姿を示し、それに至る道筋を具体的に示し、人々の心に訴えかけ、政治を変えていくということもまた実現しないでしょう。

 いまの社会の悲惨な姿はバブル崩壊以降の30年の衰退がもたらしたものであり、それはすなわち自公の行ってきた政治のもたらしたものにほかなりません。それを転換し、社会を救うための統一的な政策を樹立するということに、日本の未来がかかっているわけです。

2021.09.02 三春充希

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