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誰にどう思われようと自分の価値は変わらない

物心ついてから最近になるまで、「ただ生きていることの価値」を自分で認めることができませんでした。普通に生きているだけでは、マイナスな存在なので、何かを成し遂げたり、誰かに認めてもらうことで、それをプラスに変えようとしてきました。

「ただ生きているだけの自分」「誰の役にも立っていない自分」には、生きている価値がない、死んだ方がいいと思っていました。だから、学生時代は親や先生に褒められようとしたり、大人になってからは良い会社に入ろうとして「自分が生きていてもいい」という免罪符や証明書を手に入れようともがいていました。

しかし、勉強や仕事、夢や目標など、その物事が自分の生存価値を左右する重大なものだと思えば思うほど、やる気が湧かなかったり、苦しい思いをしてきたように思います。そういう生き方を若い頃は耐えられましたが、30歳になったタイミングで、ぱったりと身体が動かなくなり、適応障害となり、その2年後に双極性障害と診断されるまで悪化しました。

今思えば、「自分の生存価値」いわば「自分の命」がかかっているようなことをするのに、踏み出す勇気が出ないのは当たり前だったと思います。成功するかどうかもわからないバンジージャンプを躊躇わずに飛び込める人はいないと思います。それと同じです。

もし仮に「自分の生きている価値」を自分自身で認めることができていたとしたら、過去の受験や恋愛、就職や出世などについて、そこまで重く考えなかったのではないかと思います。なぜなら失敗したとしても、自分の価値は変わらないからです。失敗に怯えなくてもいい分、余計なプレッシャーやストレスがないので、もっと高いパフォーマンスを出せたかもしれません。

よくゲーム感覚で受験や就活、仕事などに向き合うことができる人がいますが、そういう人が「自分の生存価値を自分で認めることができる人」に該当するのだと思います。その人にとって、勝ち負けとは、ただの遊びの延長であって、勝っても負けても、自分の生きている価値は変わらないからこそ、シンプルに勝負を楽しむことに集中できるのだと思います。実際、自分の学生時代や人材系の営業をしていた頃を思い返すと、シンプルに勝負を楽しんでいた人の方が活躍していた印象です。悪く言えば、何も考えてなさそうな人にも見えましたが、きっとその方が自然ですね。

そのようにシンプルにゲーム感覚で受験や仕事に向き合えれば良いのですが、もし「自分が生きていてもいい」という、いわば生存許可を得ることが目的だったらどうでしょうか。そんなこと、ゲーム感覚でできるわけないですよね。銃弾が入った鉄砲で笑いながらロシアンルーレットができる人なんて、漫画の世界にしかいないと思います。きっと「ゲーム感覚で楽しめばいいんだよ!」みたいなアドバイスを言う人は、そもそも自分の生存価値を信じていて、自己肯定感が高いという前提条件が備わっているのです。それが備わっていない人には、「そんな重大なことゲーム感覚で楽しめるわけないだろ!」という気持ちになってしまい、ますます自信をなくしてしまうことになります。

また、「自分の生存価値」「ただ生きていることの価値」は、学ばないと手に入らないものなんだと思います。たまたま幼い頃に学ぶ機会があった人は幸運ですが、家庭環境が悪かったり、周囲の大人から学ぶ機会がなかった人は、これまで苦労してきたんじゃないかと思います。どうやって学ぶのかというと、「条件が果たされなくても承認される経験」を積むことが、とても大事だったのではないかと思っています。

具体的には…
・成功したときだけじゃなくて、失敗したときも認めてもらったり励ましてもらう。
・役に立たなくても叱られず、受け入れてもらったりサポートしてもらう。
・ダメな自分でも愛される、認められる。
などの経験です。

こういう経験を積むことで、物事の結果や他人の目線に左右されない「生存価値」を手にすることができますし、大人になってからは、それを自分自身で完結できるようになるのです。自分で自分の機嫌を取ることができるので、自律した人間性が身に付き、アンガーマネジメントもすることができます。

一方で、「〜しなければ承認されない」といった、「条件付きの承認」や「条件付きの愛」しか与えられなかった人は場合は、「ただ生きていることの価値」は身に付きにくく、愛情不足を抱えたまま大人になってしまう可能性も高いと思います。いわゆるアダルトチルドレンです。

例えば…
・良い子でなければ優しくしてもらえなかった。
・親の機嫌を取らなければ、いつも不機嫌だった。
・志望校に落ちたら心底がっかりされ励まされるよりも叱責された。
・好きなものよりも、嫌いなものを克服することや、親の言うこと無理やり聞かされた。
・テストで良い点数をとらないとお小遣いがもらえなかった。
などが思い浮かびます。

これは実体験ですが、アダルトチルドレンのまま生きると、非常に辛い精神状態になってしまいます。物心ついてから30代になるまでずっと、ただ生きているだけじゃ満たされなかったので、誰かに承認されることや、喜ばれることが生きる意味のようになっていました。そのため、自己犠牲をしてまで誰かに尽くしたり、働いたりしてきました。しかし、それは主体的というよりかは、自分の生きている価値を認めてもらうための、いわば「命綱のようなもの」なので、義務とか強制に近いものでした。まるで牢屋にいるような感覚なので、生きていても全く楽しくありませんし、楽しそうに生きている人と比べて、「自分は生きていることに向いてない」とずっと思っていました。

しかし、「ただ生きていることの価値」を認めることができた現在では、その許可や免罪符を得るために生きる必要はなくなり、全てが自分の自由となりました。ロープで繋がれていた心が解放され、好きなところへ行くことができるようになりました。命綱のような免罪符を得るために、嫌なことでさえも「しなければならない」と思ってやってきましたが、そんなことはしなくても良くなりました。肩の荷がおりました。

ロープから解放された当初は、「何のために生きればいいのか?」という疑問が湧きました。自分の好きなものややりたいことが分かりませんでした。人によく思われるため、承認されるため、喜ばれるため、カッコつけるため、そんなことが目的だったので、自分の心が育たなかったのですね。それを自覚してからわかるようになるまでは3年ほどかかりました。

しかし、休職をして、半ば強制的に「社会の役に立たない人間」になったおかげで、「他者からの承認がゼロ」になっても、ご飯を食べたり、寝たり、生活をしなければいけなくなりました。しばらくは罪悪感がものすごく、誰かが自分を批判する声が寝る前に聞こえていましたし、希死念慮も定期的に襲ってきました。首を吊りやすい場所を無意識に探したりしました。また、休職してすぐは、せめて英語くらいは勉強しなきゃ、とか色々焦っていたと思います。

そして、寝たり、料理をしたり、掃除をしたり、猫を撫でたり、犬の散歩をしたり、アニメを見たり、読書をしたり、そういう生活を中心に据える生活をする中で、「そういう自分が楽しいと思える生活を守ることが一番大事なんだ」という実感が湧いてきて、それ以外のことはどうでもよくなりました。

そのうち、だんだんと罪悪感を感じずにご飯を食べたり、寝たり、服を買ったりできるようになりました。それからは、自然と好きなことややりたいこと、目標などが心に浮かんできました。カピカピに乾いた砂漠にオアシスが湧いてきたような感覚です。こんなに落ち着いた気分になったのは、物心ついてから初めてです。

親の機嫌を取らなくてもいい、優しくなくてもいい、優秀じゃなくてもいい、常に頑張らなくてもいい、休んでもいい、自分を優先させていい、下手でもいい、失敗してもいい、人に笑われてもいい、人にバカにされてもいい…。なぜなら、それでも自分の価値は変わらないから。生きていてもいいから。

今では、そう思っています。

また、「親孝行しなければならない」「男は泣いてはいけない」「役に立つ人間でなければいけない」とか、そういう「ことわざ」「親世代の言うこと」「世間の一般常識」など、常識の枠組みに縛られず、半ばそれをぶっ壊すかのように、自分の価値観を作り上げることが、自立するということなのかもしれません。

そして、自分は破天荒な人や、ボブマーリーのように、自分の価値観やスタイルを作り上げてきたような人に憧れていましたが、無意識に心が「自立」を求めていたのかもしれませんね。

最後までご覧いただき有難うございました。

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