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加点方式で生きることの大切さ

こんばんは。AKERUです。

双極性障害と診断され、ちょうど1年経ちますが、最近、ようやく安定してきたように思います。正確にいえば、適応障害と診断されてからは3年ほど経っているので、1年じゃ済んでないですね。

鬱病を経験した人は鬱状態のことを「暗いトンネルにずっといるような感覚」だと表現していますが、本当その通りだと思います。最近は、ようやくトンネルの出口に差し掛かっているような感覚があります。その理由は、考え方を大きく変えたことにあります。

これまでの人生は、何事にも自分の理想通りになるべきだと期待をして、減点方式で物事を見ていたように思います。最近は、減点方式ではなく、加点方式で物事を見るような考え方に変えました。そうすることで、生きづらさはだいぶ減ったと思います。

一見すると、当たり前なことなんですが、自分は中々この考えを変えることはできませんでした。その原因は、自分がアダルトチルドレンだったことにあると考えています。アダルトチルドレンは、幼い頃に両親(庇護者)に抱えていた不満を、解消できずに大人になった人のことを言います。

アダルトチルドレンは、無意識にその不満を解消しようと、両親以外の他人や環境に対しても、自分の思い通りになって欲しいという、幼児的な自己中心性を伴う期待を抱いてしまいます。そして、期待通りにならないことに失望し、減点方式で物事を見るといった考え方を習慣化させてしまいます。

自分の場合は、「年長者なのであれば人格的にも優れているべき」という考えを強く持っていました。ですので、不機嫌になって嫌味をいう上司のことが許せず、恨みを募らせていました。今考えれば、「年長者なのであれば人格的にも優れているべき」という期待は、本当は自分の両親に抱いていた不満だったのでした。だからこそ、この上司に対する不満に固執してしまったのです。

最近になって、その仕組みに気が付いたので、そもそも他人に期待をする必要がないんだということがわかりました。両親への不満は両親との関係性で解決すべき問題ですよね。また、自分の期待や願望を叶えるために他人が存在しているわけではない、といったことにも、本当の意味で気が付くことができるようになりました。(これまでの自分はどれだけ自己中心的だったんだろうと恥ずかしくなります。)

年長者だからって、ただ単に先に生まれただけの話。人格的にも優れているわけではないですよね。自分よりも劣っている年長者なんてたくさんいますし、逆に自分より優秀な若い人なんて無限にいます。(芦田愛菜さんとか、ほんと優秀だなと思います)だから、例え年長者でも、その人間性に期待するのはナンセンスです。

両親に対しても、正直なところ、「親なんだから癇癪起こしたり不機嫌になって子どもをコントロールしようとするな!」といった不満はゼロではありません。ですが、両親に対しても期待をせずに、加点方式で考えれば、何もそういう嫌なことばかりではなくて、食事を作ってくれたり、記憶にはないですが、おしめを変えてくれたり、色んなことをしてくれたことは、確かなんですよね。

してくれなかったことばかり嘆くのではなくて、してもらったこと、手にしたものだけを考えて生きていく方が幸せですよね。きっと幸せは、そういうものの考え方をいうんだと思います。

例えば、足りないものや失ったものばかり気にしてる人は、どんな恵まれた状況でも幸せにはなれません。一方で、他人と比べずに、今手にしているものを大切に思うことができる人は、きっと幸せなんだと思います。

そして、幸せは、めちゃくちゃ頑張って、努力して勝負に勝って手にできるものではないと思います。むしろ、肩の力を抜いて、自分が生きていることそのものに満足をすれば、幸せになれるんじゃないかと思います。もしかすると、努力とか、勝負とかは、幸せとは真逆の価値観かもしれません。それじゃ、努力や勝負はしないの?という疑問が湧きます。

その答えは、「幸せになるため」じゃなくて、「楽しむため」「喜びのため」「お金があった方が便利だから」努力するんです。幸せとは、無関係です。極論いえば、別に幸せなホームレスがいたっていいと思うんです。お金持ちでも、不幸せな人はたくさんいます。

他人と比較して、自分に足りないものばかり意識するような世界に生きていれば、上には上がいるので、いつまでたっても不幸なままです。

例えば、田舎だと地方公務員は勝ち組ですが、五大商社に勤めてる人からしたら、大した肩書きではありません。さらに、旧財閥の血筋を持っている人や皇族関係者からしたら、その他の人間なんて格下でしょう。上には上がいます。(これは持論ですが、猫からしたら、全人類が下僕みたいなものです。)

ですので、何回も言いますが、「幸せになるため」ではなくて、「その方が便利だから」「楽しいから」「勝った方が気分がいいから」努力するんですね。

もし「幸せになるため」に努力して何かを手に入れようとすると、その何かを持っていない現状が不幸だということになってしまいます。その考え方自体が不幸なんです。

きっと努力をすることに抵抗がある人は、「努力は幸せになるためにするもの」と勘違いしているからなのかもしれません。もし努力をすることで幸せになれるのだとしたら、ただ生きているということでは幸せになれないということを認めてしまうことになってしまいます。それは、自分の命の価値を否定することと同じです。

ただ生きてれば満足。明石家さんまさんが「生きてるだけで丸儲け」という名言を残してますが、まさにこの考え方が、幸せそのものなんですね。

そして、その考え方に至るには、減点方式で物事を考える癖を捨てなければなりません。自分の思い通りに物事が動くことを期待してはいけませんし、そうならないように、アダルトチルドレンから脱しなければなりません。

加点方式で物事を考える癖を付ければ、お金がなくても、友達がいなくても、最後には「命」が残っているはずです。自分が生きてさえいればプラス、そんな世界で生きていれば、きっと世の中に絶望することもありませんし、純粋に手にしたものを喜べる、感謝をすることができる人生を送れるはずです。

そして、自分がただ生きていることをプラスに感じられるようになれば、自然と活力が湧いてきます。加点方式で考えることが習慣になれば、自分にできること、今手にしている大切なものに気がつくことができます。

自分の場合は、適応障害になって3年以上、自分にパワハラをしてきた上司や子どものように不機嫌になる精神年齢が低い両親のこと、そして、上手く生きることができずに精神疾患を抱えてしまった自分のダメなところ、そんなことばかり考えてきたように思います。

しかし、加点方式で考えられるようになった現在は、支えてくれている妻や、一緒に遊んでくれるペットの犬と猫、好きな音楽やギター、美味しい食事がいつでも食べれる環境やふかふかの毛布など、自分の周りにはたくさん、自分が手にしているものがあるんだということが感じられ、突然、世界が色鮮やかになったような感覚を味うことができています。

また、「親の顔色を伺って不機嫌を治す」ことが、幼少期の自分に与えられた責務でしたし、そうしなければ生きてはいけませんでした。そういう自分を優しい人間だと思っていましたし、優しい自分でいることが自分の価値でした。「人に優しくしないと生きてはいけない」という環境で育った自分は、「人に優しくできない自分」は生きる価値がないと、無意識に思い込んでいたんですね。

ですので、親の顔色を伺うのを辞めたくても、もし辞めたら「親不孝もの」になってしまって、「優しくない」自分になってしまいますし、そんな自分は生きている価値がなくなってしまうので、なかなか親のご機嫌伺いを止めることができなくなっていました。

しかし、今では「優しくできない」自分に、罪悪感を感じることはなくなりましたし、そんな自分を肯定することができています。ただ生きていることが、それだけで素晴らしいことなんですね。このように、幼い頃から負わされていた「役割」みたいなものは、「ただ生きていること」を肯定する上では、ただの障害なんですね。

そもそも人生に対する不平不満や愚痴を何度も言われたって、自分自身が自分の人生をより良いものに変えようとしない限り、人生は変わりません。その人に必要なのは、他人の優しさではなくて、自分の人生に責任を持つ、大人としての態度です。そういう意味で、きっと自分の両親は、少し前の自分と同じように、アダルトチルドレンなのではないかと思いますし、そんな人の治療なんて素人には無理です。

何度でも言うように、だた生きているだけでも価値があります。プラスなんです。そう心の底から思えるためには、「〇〇じゃなきゃ生きてはいけない」といった誤った思い込みや、幼い頃から負わされたいた役割を全力で否定するんです。そして、アダルトチルドレン的な、他人に思い通りに動いて欲しいという一切の期待を捨て、加点方式で世の中を見る習慣を付けるんです。そして、ただ生きていることをプラス評価し、努力や勝負の勝ち負けと「幸せ」とは切り離して考えるんです。

そのように生きていけば、きっと鬱の長いトンネルから抜け出せる日は必ず来ると思いますし、自分自身も、上記のようなことを忘れずに今後も生きて生きたいと思っています。

最後までご覧いただきありがとうございました。




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