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だから、わたしは猫をなでる。

例えば、愛情不足で育ったとして。親がいつも自分のことばかりで、悲しい時に励ましてくれなかったり。条件付きの愛情しかくれなかったら、きっと愛情不足のまま大人になってしまう。その貰えなかった愛情の代わりを求めて、それを目的に生きてしまう。だけど、そんなものは手に入らないし、手に入ったとしても、その対価を要求される。絶え間ぬ努力や献身、時にはお金や時間、労力を。そうして疲れて壊れていく。

20代までは、ずっとそんな人生だった。周りに愛されたくて、顔色を伺って生きてきた。だから、それでも愛されないと、その相手を憎んだりもした。どんなに頑張って尽くしてもこっぴどく振られたこともあるし、どんなに頑張っても評価してくれず悪口を言ってくる上司もいた。きっと期待をしていた。頑張って尽くせば愛される、頑張れば必ず評価されるって。今思えば、自分の両親を重ねていたのかもしれない。けど、自分の両親とは違う。その代わりをしてもらおうと無意識に期待していた自分にも非があった。

いつまでその代わりを探しているのか。きっとそんな人は多いはず。愛してくれる誰かを探して、依存して、たくさん与えて。だけど、「与えたんだから、代わりに愛をくれ」という要求が見透かされて、面倒臭がられて。気付いたらその相手はいなくなって、また他の誰かを探して。その度、「見捨てられ不安」が襲ってきて、生きるのが辛くなって。それはきっと、その相手のことを「自分を見捨てることができる存在」だと考えていたから。幼少期の頃の親の姿をその相手に投影して、代わりに愛されようとしていた。

だけど、誰も自分の親の代わりは務まらない。相手への過剰な要求は、本来、自分の親にして欲しかったこと。その代わりは誰にも務まるわけがない。相手には相手の都合があって、必ずしも自分の要求を叶えてくれるはずがない。例え自分が"かわいそう"でも"被害者"でも、"弱い立場"でも"正義"でも、その相手に無理な要求をぶつけていいわけではない。それなのに、幼少期の頃に親に「甘え」を満たしてもらえないと、大人になってから誰かに要求してしまうこともある。世の中の大半のクレーマーは似たような精神構造だ。自分の期待を満たしてくれない存在は、まるで愛してくれなかった親と重なる。だから、普通以上に激昂する。中には親が子どもに甘えているパターンもある。自分の場合、親に精神的に甘えられ、その分、自分自身が誰かに甘える機会がないまま大人になってしまった。だから、大人になってからも、誰かに甘えたくてしかたなかった。誰かに愛されたくて、何事も「愛されること」が目的になっていた。ただし、それは他人に大きな負担を強いるコミュニケーションであり、期待と失望を繰り返す悪手でもあった。今思えば、そんなことを思う。ただ、20代の頃の私には、愛をくれない相手を恨むことしかできなかった。こんなに与えたのに、恩知らずだとも思った。まるで自分が被害者かのような気分だった。

そんな自分を変えたきっかけは、猫だった。あるとき、ふと猫を飼った。ずっと猫が好きだった。今日飼わないと、と突然思った。目の青い男の子。彼は撫でるとゴロゴロ喉を鳴らす。とても控えめに寄ってきては、見つめてくる。ご飯が欲しいときは、か細い声で鳴く。ニャー……って感じで。毛をブラッシングしてご飯をあげて、たまに引っ掻かれて。その後、躁鬱病が悪化して会社を休職。鬱がキツくて布団で倒れている時も、彼は素知らぬ顔で自由気ままに部屋をウロウロしたり、段ボールを見つけると飛び込んだりしていた。そんな日々を過ごして、半年ほど経った頃。

気付けば、愛で溢れていた。

今までは愛が欲しいという見返りを求めて、誰かに何かを与えていた。しかし、青い目でモフモフの彼に対しては、特に見返りは求めていなかった。ただ元気でいて欲しいし、それが一番大事だったから。それだけでよかった。ご飯をあげたり、毛をブラッシングした。そうしているうちに、例えようのない温かい気持ちが込み上げてきた。はじめて、見返りのない愛に触れた気がした。自分の内側から、温泉のように湧き出してきた愛に、自分まで癒された。きっとこんな風に、理由もなく愛されることを。条件も何もなく、ただ愛されることをずっと求めていたことを知った。だから、これからは、同じように、自分のことを、理由もなく、条件もなく、ただ心臓が動いてるだけの自分を、愛してあげようと思った。美味しいものを食べて、オシャレをして、好きなことをするのに、「資格」なんかいらない。生きていることは「罪」なんかじゃない。罪悪感はいらない。

きっと自分の両親は、愛情不足のまま大人になり、時代の成り行きで家庭を持ち、子どもを作った。だから、親は自分自身の親にして欲しかったことを、子どもに求めてしまった。「与えたんだから愛してくれ」「愛してくれなきゃ与えない」というメッセージを子どもに送ってしまった。愛を図る物差しとして、ご機嫌取りをさせた。夫婦喧嘩の間に立ち、母親からは毎日のように父親の悪口を聞かされた。「あの人と同じ墓にはいれないで」と小学生の自分にしつこく言い聞かせた。きっと本当は、母親は、夫婦関係の亀裂を自分の親に相談したかったのだろう。だから、母親は、身近にいた私をその代理に選んだ。しかし、他人が、ましてや子どもが、祖母の代理をできるわけがない。本来は、親が子どもを無条件に愛すべきなのだ。きっと母親には、子どもに対する大きすぎる期待と同時に、失望があった。条件を満たせず、失望された子どもは、またしても愛情不足となる。その繰り返し。

「親孝行はしといた方がいい」という何気ない言葉。正義。それがさらに私を苦しめた。これ以上、この親と関わると、こっちの頭がおかしくなる。それなのに、親孝行をしない自分は悪で、不届きものになってしまうのだとしたら、あまりにやり切れなかった。出した結論として、「自分を守る」ということ。もし自分が生きていくために、誰かの期待や甘えを突き放したとしても、それは罪にはならない。そして、そのために「親から愛されたい」という願いを諦めた。親も物乞いで、自分も物乞いなら、そこには争いしか生まれない。だから、自分の食い扶持は自分で稼ぐこと。自分に対する愛情は自分で作り出すこと。それが最適解であり、それを他人に求めている以上、やはりいつまで経っても自立できない。

だから、私はこれからも猫をなでることにした。好きな音楽を聴いて、お気に入りのコーヒーを飲む。好きな歯磨き粉で歯を磨く。お気に入りのタンブラーを使う。具合悪かったら会社を休む。休んだ日も好きなコーヒーを飲みながらお菓子を食べる。たまには運動して身体をケアする。親が負担だからやり取りは最小限にする。何よりもまず自分を大事にする。「生きてるだけで100点」だと信じる。嫌いな飲み会には行かない。好きな服を着る。

そうやって、何者でもない自分に、ご褒美をあげて、生きていこう。好きなものを愛して、自分の内側から湧き上がった愛に、自らも癒されよう。そう思っている。

さて、猫をなでようかな。



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