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前方席の一撃 ー古参ファンAさんの場合ー

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二幕のショーが始まった。
今回が初演になるこのショーは、前評判が高く自然に期待値もあがる。

幕開けから煌びやかな衣装を身に着け、トップスター「聖夜 椿」が登場だ。
驚くほど細い体に小さい顔。それに長い両手を大きく広げながら、悠然と真ん中に立った。


近い!も、ものすごい近い。

急に息苦しくなって、気づくと喉がごくりと鳴った。

(息をのむってこのことだ)
本当に息が飲めることを知ったのはこのときだ。
静まり返った劇場の前方席は、その喉音でさえも響くような気がして恥ずかしくなった。



様子がおかしいことに気づいたのは中盤のことだ。
それは銀橋に出てきた椿が中心に立ち歌うシーン。
そこで私の人生を変える出来事に遭遇する。


トップスターの椿が笑顔でAさんに会釈したのだ。




そのシーンは突然やってきた。

椿は二階席を見上げながらまばゆいほどのスポットライトを浴びている。
ゆったりとした動き。うっとりするほど美しかった。

そしてトップスター特有の例のアレをやった。
二階席から一階席へ、舞台上手そして下手とつつーっと順に目を降ろしてくるあのしぐさだ。
これは劇場の隅々までしっかり目を配っていますよ、というトップスター特有のしぐさ。
これで二階席でも「目が合った」と喜べるのだから宝塚は本当に幸せだ。

そしてお決まりが、前方席に座る特定の人に軽く会釈をする場面だ。
これは台本で決まっているのではなく、トップスターがその時の客層を見て判断し行っているらしい。

ショーの中でいくつかの場面、あとは最後銀橋にみんなで出てきたときにこの会釈が行われることが多い。

トップスターからの会釈をもらえるのは、多くの場合「お客様席」に座る上客や知り合いだ。
たまに劇団員や芸能人もいる。

これは椿を応援していく中で知ったことだが、劇場の中心を境に上手側がファンクラブ席、下手側がお客様席で分かれているらしい。

上手側の前方席がお客様席の上客だとすると、この下手側前方席に座っているのは、ファンクラブの幹部と言われる上層部かファンクラブのSランク会員だ。

この下手前方席は、ものすごく頑張ってファンクラブ活動をすることで与えられる栄誉ある席。
ここに座ることができる会員は、入り出の出席回数やチケット申し込み枚数、そしてお花代で多くは決まっているらしい。

らしい、が続くのは全てがそうとは限らないからだ。
会によっては違うケースもあるだろう。
あくまでもその当時、私が聞いた限り、ということとしておく。



それはさておき、この日私たち(というかAさんに譲ってもらった席)は、前方下手のお客様席だった。
当時の私はといえば、そんなことも知らずにのんきに座っていた。


椿は一階の上手から下手へ目配りをする。
そして最後、私たちの座る5列目中心に目を置いた。

ここで私の隣にはっきりと顔を向け、笑顔で会釈をしたのだ。

私は驚いて隣のAさんを見る。
するとAさんの瞳は椿を見つめていた。そして優しい笑顔で小さくうなずいていた。



ここで、私の隣にはっきりと顔を向け、というこの部分に注目してほしい。

実は前方席に座ると、この目線は自分に向けられていないことがはっきりわかるのだ。
これは後ろで見ているときには気づかなかったことだ。

私はてっきり、自分を見てくれていると勘違いするほど近い、もしくは後ろの席と同様どこを見ているか不確定になっているものだと思い込んでいたのだ。

たとえば隣に座った人に向けられた目線。
席でいうとたった20~30センチほどの差かもしれない。
ただその差は宇宙ほど違っていることに気づく

「これは隣を見ている」と。


この違いはたった一列違っているだけでも気づく。
たとえば5列目46番に座っているときに、4列目46番もしくは45番に座っている人に目線を向けられた場合、はっきり前列のその人を見ていることに気づいてしまうのだ。


私にとって椿に会釈をされているAさんはその瞬間から神になった。

この人すごい!

そしてそのAさんに席を譲ってもらった自分がなぜか誇らしくなった。
なんかすごい人に譲ってもらった、と。

今思うと私は運が良かったのかもしれない。
初の前方席がお客様席で、しかも椿にとって大切なお客様だったこと。

たとえ「トップスターの一撃」が自分に向けられていない事に気づいたとしても、前方席には魔性の魅力があるということ。
それと同時に怖さを知ったこと。


この出来事によって私は「聖夜 椿」を応援する方向性がはっきりと決まったのだった。






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