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lesson 9  夏の御馳走

 夏目漱石である。

 息子の夏休みの国語の宿題が、夏目漱石を読もう、なのである。矢張り日本人と生まれたからには、一度は通過するイニシエイションなのだろうか。

 言わずと知れた文豪である。例の猫のせいで、である、という言葉を使いたくなってしまう御方である。

 かつては彼の姿が印刷された札を使って暮らしたこともあるし、先年ついに彼が没した年齢を追い越してしまった。月が綺麗ですねは通説らしいが、脳と胃が東大医学部に保存されている男は、「I love you」を本当はどのように訳そうと思っていたのだろう。

 何を読めばいいかと息子に聞かれ、はた、と考えた。

 これまでに読んだものは、とたずぬるに『吾輩は猫である』『坊ちゃん』は読んだと即座に返答があった。『坊ちゃん』は教科書に載っているらしい。そうか。昔は『こころ』だった気がするが。

「つか、なるべく簡単なのにして」。

 剛速球の本音を投げる愚昧の輩である。

 夏目漱石の時代を遠く離れて共通認識できる「言葉」「物」「事象」が減っており、既に注釈を必要とする。昭和ですら平成令和の人間にとっては想像することが難しいという。いわんや明治をや。

 注釈で読むならそれは古典である。比較的敷居の低い『坊ちゃん』にしても現代の子供たちにとっては読解に障害が多いであろう。学校の先生の「なんでもいい」は怖い。どの程度の水準を求めているのであろうか。

 出足の悪い息子が訪れた時には既に学校図書館に関連書籍は無く、地域の図書館は遠方にある。行こうとしたが、酷暑の日差しは決意を炎天下の氷のごとくに溶かす。

 どうせならじっくり時間を気にせず読みたい。勉学のためであるから多少の出費はやむを得ないであろう。

 こうして本を贖う正当な理由を手に入れた。

 我が家には名作文豪の類の本が少ない。図書館で予約なしに読めるものは購入を躊躇うからだ。まずは子供の手前入門編として『こころ』『三四郎』を注文。参考までにと学生向けと大人向けの評論も買った。

 考察する気満々なのは自分である。

 あゝ楽しい。これは何であろう。美食家がお取り寄せサイトからお好みのものを取り寄せて少しずつ食べていくのに匹敵するだろうか。選ぶ時も、到着を待つ間も、届いてからも、味わっている時も、ずっと楽しい。

 夏休みはいつもこうだ。子供の宿題が私の御馳走と化す。子供の時分は「読まねばならぬ」の圧力が嫌だったが、大人になってからは課題図書を楽しんで読める。

 学校の先生がたも「オラ、わくわくすっぞ」レベルで楽しみにしている親がいるとはよもや思うまい。注文した本を読んだら、他の本も追加しようと思う。『行人』『明暗』は実は読んでいない。

 当の子供の宿題は知らぬ。本は買ったので彼は彼でなんとかするであろう。私はこの夏を漱石と楽しむことに決めた。久しぶりに読む夏目漱石に、果たしてどんな心持になるのであろうか。







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