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芸のためなら女房も泣かす

 いよっ、待ってました!

 そう声を掛けたくなる新作が出ました。

 蝉谷せみたにめぐ実さんの『おんなの女房』。

 前作であるデビュー作『化け物心中』にすっかり心を奪われてから、待った待った一年弱。

 『化け物心中』を夢中で読んで以来、新刊が出るのを、ずっと楽しみにしていました。

 今回の舞台もまた、江戸化政期の芝居小屋の役者の世界。

 ブログにも書いていますが、実は、『化け物心中』を読んだ後は、シリーズ化してしまうのが嫌な気持ちと、シリーズ化してほしい気持ちがないまぜになっていました。

 次はできれば「続き」や「同じ登場人物」ではなく、リンクがいい―――そう思っていた願いが通じたのかどうか。 

 前作で私を虜にした小気味よく進む文体は変わらず、同じ世界観は変わらず、しかし違う登場人物たちが活き活きと江戸期を生きています。

 そして前作と、絶妙な感じでしっかりリンクしていました。
 この喜びをなんと申し上げて良いやら。
 こういうの大好きなんです。

 今回も芝居小屋の「女形おやま」がキーとなっていますが、お話の傾向はだいぶ違います。『化け物心中』はホラーミステリーっぽかったですが、今回はもっと現実的で、純愛ロマンスでもあります。

『化け物心中』にはこんなくだりがあります。

 「女形にも色々と種類がありまして、尋常から女として過ごす女形と、尋常は男に戻って過ごす女形。どちらが良いってえことはござんせん。名女形にはどちらの型もいらっしゃった」(中略)「橘屋、芳沢あやめは、尋常から女で過ごすことを説いておりました…(後略)」

『化け物心中』

 この、橘屋芳沢あやめに憧れ、尋常から女の姿をし、日夜「女」というものを研究しているのが、今作『おんなの女房』に出て来る燕弥えんやという女形。

 燕弥は常から女子の格好をしている。燕弥が一生のお師さんとする女形、芳沢あやめとやらが言うには、「平生を女子にて暮さねば、上手の女形とは言われがたし」。その教えに従って、燕弥は舞台を降りても振袖を着、髪を結い上げ、女子の言葉を舌に乗せる。

『おんなの女房』

 その燕弥が、女房を娶ります。それが、主人公、志乃。

 志乃は東北の武家の娘でした。女形が目玉の芝居の演目はだいたいに武家において武家の姫を扱っているため、燕弥は「武家の女」を研究したいがために、志乃を娶ったのです。擦れた江戸の武家娘などではなく、古き良き所作を残した田舎侍の娘だった志乃は、格好の研究対象でした。

 芸のためなら女房も泣かす…

 とはいえ、泣かせ方がちょっと違います。
 志乃は日々、目の前にいる「武家のお姫さん」と暮らしながら、自分の役割とは何か、自分の存在意義とは何か、「女」とは果たして何か―――と言った、言ってみればジェンダーの問題や、アイデンティティ・クライシスに晒されます。

 燕弥のほうも次第に志乃に惹かれていくのですが、最後に訪れる想像もしないような結末が衝撃的です。

 これは「武家の娘」として「型」にはめられて育てられてきた女の子が、「型」を求めて狂ったように芸を極めようとする役者と生活し、役者が演じる演目の「姫君」たちを通して、己の足で立ち己の力で考える、自立した女性になる物語でもあるし、性を超越し「型」以上の領域に踏み込んでいく燕弥の、あらゆるものを犠牲にしても役者としての成長を求める命がけの人生の物語でもあります。

 『鎌倉三代記』の時姫(三浦義村に恋慕する時政の娘という設定の真田幸村のお話。時姫は徳川の千姫がモデル)、『道成寺』の清姫、『祇園祭礼信仰記ぎおんさいれいしんこうき』の雪姫(演目の別名は金閣寺)、『本朝廿四孝ほんちょうにじゅうしこう』の八重垣姫。
 特に時姫、雪姫、八重垣姫は「三姫」と言われ、歌舞伎では時代物と呼ばれる演目の中で、代表的でなおかつ難しいとされる三役であり、緋色の衣装をつけることから「赤姫あかひめ」と呼ばれます。
 赤姫の中でも大役である三姫を野心を持って意欲的に演じることになる燕弥。
 彼が演じる姫君を通して、「お芝居は全く知らない」という志乃とともに、読者の私たちも様々な演目の筋書きをなぞることになり、自然に歌舞伎の物語が入ってきます。ニクい演出です。

 この物語には志乃の他にも役者の女房が出てきて、気風のいい彼女たちとの交流が爽やかでとてもいいです。

 『化け物心中』にも顕著でしたが、『おんなの女房』でさらに際立っていたのは、男性に生まれながら女性を演じる「女形」という存在の訴えかけるものの迫力です。

 そもそも、芝居は男のもの。
 女は芝居ができないから、女の役を男が演じる。
 その女を手本に、アイドルのようにもてはやす女たち。
 それはモテを追求するときに参考にする「女」のひとつの型であり、理想であり、夢。
 それは男の夢なのか、女の夢なのか。
 その夢の女の女房は、いったいどこに「よすが」をもてばいいのか。

 蝉谷さんの作品を読んでいると、女に生まれた私も、はたまた女が「異性」である男性も、

おんなとは、果たして何だろう。子供を産むのも女、子を持たないのも女、何をもって、女と言うのだろう。女の中には聖と俗があり、魔性の鬼や蛇も住む。そして翻ってみれば、男と女とはなんだろう、男とはなんだろう」

という問いに、ガチンコでつきあたることになるのです。

 学術的に、難しく問いかけているのではありません。
 どっちがいいとか悪いとか、正しいとか正しくないとか、そういうポリティカルな問題でもありません。

 もっと素直に、「誰かに本当の自分を見ていてほしい」ということそのものが、「性」の本質なのかもしれない、と思えてくる…

「男でも女でも、別にどちらでもいいじゃあねえですか。男であることが正しいわけじゃない。女であることが正しいわけじゃない。あんたが男でも女でも、あんたが人間でも鬼であっても、魚之介ととのすけは魚之介で、俺が魚之介を好きなことにかわりはねえんです」

『化け物心中』より

 『化け物心中』の主人公、藤九郎はそう言います。今はやりのBLではありません。そういう括りとは、ひとあじもふたあじも違う、時代小説とひとくちで言うのもなんだか違う、なんともカテゴリーの難しい蝉谷作品。

 そう、つまり、新鮮。

 これ以上は語りますまい。

 またしても、夢中で堪能させていただきました。

追記:初版2022年1月発行です。











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