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Review 5 スリスリ

あたまのまーうーえにーほしがーある/あれがーあれがぼーくのーほーしだよー/プチ・プラン、プチ・プラン、ルルルルルールール 

 今でも『星の王子さま』のアニメの主題歌が歌える。調べたら、1978~1979年に放映されている。ドンピシャに小学生だ。

 主題歌は歌えるが、実はそれほど熱心に観ていたわけではない。当時はそこまで面白いと思わなかった。

 そして、有名な原作本のほうも、子供の頃は読んでいなかった。読もうとはしたのだが、難しかったのだ。タイトルと、あの絵にはとても心惹かれ、図書館で膝に乗せ何度も頁をめくった。最初のほうの、ウワバミの絵や羊のお話はよく覚えている。でもその後、なんだか急に難しくなって読み切ることができなかったのだ。

 しっかり読んだのは、おそらく大学生の時だ。改めて読んでみようと思ったら、心を掴まれた。寓話というのは、実は子供向けではない、という体験を初めて実感したともいえる。「大人ってへんだ」という表現が度々出て来るが、本当に「子供がそう感じる」と実感できるのは大人になってからだ、と言えばいいだろうか。まさに「当事者」である子供であった時代には、感受性を総動員してもその奥深さに触れることができなかった。もちろん私の読解力と感受性がお粗末だったせいもある。

 今は手元に本がある。節目節目に読み返す不思議な魅力のある本だ。

 『星の王子さま』は、フランス人の飛行士で、小説家でもあったアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの小説だ。彼の代表作であり、出版は、1943年。

 サン=テグジュペリは第二次世界大戦時アメリカに亡命していたが、自由フランス空軍に志願し、偵察飛行隊に属した。1944年、部隊のあったコルシカ島から単機で出撃後帰還せず、消息不明になる。海で機体が見つかって戦死と認定されたが、遺骨はいまだに見つかっていない。

 『星の王子さま』は、初版以来200以上の国と地域の言葉に翻訳されているが、日本で有名なのはこちらだ。

 内藤濯(ないとう・あろう)訳、挿絵はすべて原作者サン=テグジュペリ。

 版権については、フランス国内と日本での訳本としての版権は違い、フランス国内ではサン=テグジュペリが「愛国殉職者」であるために2044年まで著作権が保護されるらしい。日本では長らく岩波書店が独占的な翻訳権を有していたが、原著の日本における著作権の保護期間は、2005年1月に満了した。そのため2005年以後は、新しい訳本が数多く出版されている。

 今回「読書の秋2021」に参加しているポプラ社から出た『星の王子さま』は、2021年3月に創刊したばかりの「キミノベル」という、新しい児童文庫レーベルからの刊行だ。訳は加藤かおりさん、絵は矢部太郎さん。

 超ロングセラーなのでこれまでもこれからも様々な解釈があると思うけれど、『星の王子さま』は大人が味わう本だと私は思っている。

 確かに子供がとらえる『星の王子さま』があっていいし、それは子供の心を育てるだろうけれど、それはまだ植えられたばかりの種に水が撒かれただけで、その種が無事に芽吹き、花実をつけるまでに、たっぷりと時間を要すると思う。もちろん、子供の頃に心に『星の王子さま』の種を持った人は、大人になって初めて読んだ人よりも、その花実は豊かに実るかもしれないけれど。

 今回の出版に当たり、版元や絵を描かれた矢部さんは、私のようなひねくれものが当然いるであろうことは百も二百も承知ということで、

矢部さんはこの本の出来栄えについて「世界で2番目に素敵な『星の王子さま』になりました!」と仰っていました。

 と、謙遜されている。

 (先の言葉は、こちらの記事から引用させていただいた)

 ポプラ社というのは、「かいけつゾロリ」「おしりたんてい」の版元さんだ。子供の心を知り尽くした、とんでもないところだ。スペシャリストだ。そこが社運をかけて(とまではどなたもおっしゃっていないが)いまこそと出版した『星の王子さま』。きっと、より子供に近い視点を求めたのではないか、と期待して、楽しみに読んだ。もちろん心のどこかで「サン=テグジュペリの絵に勝るものがあるとは思えないがのぅ」というしわがれた老婆の声を響かせつつ、だ。

 読み終わったとき、これなら子供のころの私もわかった、と思う箇所が随所にあった。訳が素晴らしかった。といって私はフランス語も知らなければ、フランス語原本も知らないので、訳が素晴らしいなんて、偉そうなことを言えるはずもない。ただただ、子供目線の日本語が素晴らしかった。

 王子さまは、気になったことは何でもしつこくわかるまで尋ねないと気が済まないところがあるのだが、その「ひっかかる言葉」が全編に置いて「的確」だった、と思う。訳者の加藤かおりさんは既訳をすべて読まれたそうだ。そのうえで選びに選んだ言葉だというのが、よくわかる。

 ひとつひとつ違いを取り上げるなどと言うのは野暮なことだが、例をあげるとすれば、キツネのところだ。子供の頃私には、このキツネとの会話がとても難しかったのだ。まだ「飼いならされていない」と、かつての訳本でキツネは言った。飼いならされていない。私はどうにもしっくりこなかった。子供の私は「キツネは飼いならされたいなんて思わないんじゃないかなぁ」と王子さまのようにむじゃきに思った。

 今回の訳では、一緒に遊ぼうと誘う王子さまにキツネが言う。「おいら、きみとは遊べないよ。だって、まだ、きみになついてないもん」。

 うん。子供の感覚としてこれだ、と思った。なつく、と言う言葉は実はよく考えると難しいけれど、子供はよく聞き理解しやすい言葉だと思う。宮崎駿さんのジブリのアニメ、ナウシカがキツネリスと仲良くなる場面がわかりやすいかもしれない。

 ナウシカはキツネリスに手を伸ばし触れようとするが、キツネリスは最初は噛んだり威嚇したりする。「ほら、怖くない。怖くない」とナウシカが言うと、その後噛んだナウシカの手を舐める。「おびえていただけなんだよね」というナウシカ。その後、キツネリスはナウシカにスリスリと寄っていく。

 そういう感覚を「なつく」というのだと、子供たちは知っている。その場面では「なつく」という言葉が使われていたかどうかは忘れたが、ナウシカの動植物神羅万象に対する愛を表現する場面でもあって人になれないキツネリスがすぐに「なつく」ような、特別な存在というのを象徴している場面だ。そういえば宮崎駿さんはサン=テグジュペリの大ファンだそうだ。「なつく」はポケモンなどでもよく出て来るし、家で動物を飼っていれば実体験もする。

 「飼いならす」という言葉は、私にとっては、たとえばサーカスで動物を使う、蛇使いが蛇を使う、といった、なにかこれから一緒に仕事でもするような、ちょっと微妙な「使役」の感じだったのだ。人間の方が偉いというような。「手なづける」というのもこちらに近い。原作にどちらが近いのかはわからないが、子供の立場に立つと「なつく」のほうがすっと心に入ってきそうだ、と思った。

 うん、いい。すごくいいかも。読んでいるうちに、どんどん、そう思った。絵は、実は心の奥でやっぱり、原作者の絵がちらついて、正直しっくりきたとは言い難かったのだが、訳の良さがその違和感をうまく中和してくれて、新しい『星の王子さま』として心の中にちゃんと着地した。

 私は、挿絵はサン=テグジュペリ以外の人の絵ではだめだろうとずっと思っていた。主人公がサン=テグジュペリと同一だとはどこにも書いていないが、主人公が「経験したこと」として描かれているために、あたかも「本当にあったのでは」という余地を感じさせるのに、「作者本人の絵」というものが強く作用しているのだろうと思ったのだ。

 物語として創作した、というよりノンフィクションをファンタジックに描いている、というのを演出しているのがこの絵なのだろうと感じていた。だからこそ、この本を読んだことのある地球上の人々が夜空を見上げた時、王子さまの星を探したり、そうだ全部が王子さまの星だったと感じるリアリティが生まれるのではないか、と思っていた。

 矢部太郎さんは「大好きな本だからこそ自分が描いてみたらどうなるんだろうという欲求に勝てずに」この本の挿絵を引き受けたと、前述の引用のところでおっしゃっている。なかなかに勇気が必要だったことだろうと思うが、だからこそこの挑戦は、「命の危険を冒しても、誰かにメッセージを届けたい」と飛行機に乗り続けたサン=テグジュペリの精神に、最も寄り添っているのではないか、と感じる。

 「サン=テグジュペリの絵でなければダメなんだ!」なんていう私を、 ちょっとずつこの新しい『星の王子さま』になついた・・・・私を、王子さまは「大人ってへんだなぁ」と笑うような気がする。

 私はもうあの絵に「洗脳」されているのでどうにもならないが、まっさらな心に矢部太郎さんの絵は優しく沁みそうだ。もう「まっさらな心」がないのが少し、寂しい。

 


 

 





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