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『20年後のゴーストワールド』第2章(4)空の色すらも変わる

私の母のこと、私の本当の悲しみに最初に気がついたのは実は浅井だった。私と重鎮ことおじさんが繋がるきっかけになったバンドマンだ。
(第1章・私のシーモア(2)私を構成した42枚参照)

私は母のことで辛くてircleの『忘レビ』という曲をSNSに投稿した。母について具体的なことは何も書かなかったが、その悲しみに気がついてメッセージをくれたのが浅井だった。それはおじさんとやり取りをする前の話である。

浅井は私のSNSでの投稿を見て、
「これは本当の悲しみだ」とコメントをくれた。

人は生きていて色んな悲しみがあって、その苦しみは他のものと比べようなんてないのだけど、私が直面したのは死別や失恋やそういったものともまた違う言葉にできない悲しみだった。この時はまだ、友人にも職場の人にも母のことを話せずにいた。口に出したら、本当の本当にこれが現実なんだと思って言葉がつかえた。でもはじめてわかってくれる人が居た気がした。

母の認知症は「レビー小体型認知症」だ。
私の好きな漫画家の蛭子さんも同じ認知症になった。蛭子さんは2023年に"最後の展覧会"と題した展覧会を行った。そこに在廊した蛭子さんの姿を写真で見たら、母と似た目つきになっていた。認知症になった蛭子さんが描いた絵は、もともとのシュールな作風をどこか想起させつつも、世界がぐにゃりと曲がって幻覚を見ているような絵だった。母もこんな世界にいるのだろうかと思った。

『忘レビ』という歌のタイトルは、そのレビー小体症の"レビ"からきている。この歌を作ったircleのメンバーの家族か、知り合いかはわからないけれど、身近にそういう人が居て、少なくともこのバンドの人たちはこの認知症のことを知っていて、その悲しみを知っていて歌にしている。それがどれだけ私の心の救いになったことだろう。

この歌の最後、ヴォーカルがひたすらに叫んでいる。
歌詞で、演奏で表現しきれない、言葉にならない悲しみを喉がはち切れてしまいそうなくらいに激しく叫んでいる。どんなに言葉を尽くしてもどうしようもない、言葉が出なくなってしまう悲しみだから、その叫びはどんな歌の歌詞よりも胸にせまるものだった。

私はその浅井のコメントに、おこがましいと思いつつも少し自分の身の上を書いて返信した。人並みに生きられずに、親孝行もできないまま、母は呆けてしまって、何もできない自分を責めていると。

そうすると浅井は
「お母さんは、きっと別に不幸じゃない。家族がこれからもお母さんがハッピーになってほしいと思って接したら、お母さんは充分幸せなんじゃないかな」と返信をくれた。

ただただ目の前が真っ暗だった私には『忘レビ』の歌とともにとても救いになった言葉だった。堅苦しい気持ちに、どんなこともきれいごとにしか聞こえないおそれがある、そこで真逆な"ハッピー"という言葉をポンと投げてくれる人情味が浅井らしかった。

おじさんがあの感じだったから、私とおじさんを引き合わせた浅井を一瞬、何故?と思う気持ちも生じたけれど、それも彼なりに良かれと思ってのことだったのだと思う。私はおじさんの作品が昔から好きだということ、私の辛さを知って、パートナーとまでいかなくても身近に頼れる大人が居ても良いと思ったのだろう。
しかし、おじさんがあの感じであった。
あの感じは、浅井だってわかっていただろうけど、まさかあそこまで、とは思ってなかったと思う。

仕事や仲間うちの、集団の中の男性対男性の付き合いは、あまり深い話をしなくても何となくのノリで居られることが多い印象だ。空気読めないな、なんかやばいな、話通じないなと思っても集団ノリで居られる感じがある。仲間外れにしたくないからというより、深く関わる前提があまりない感じで、表面上の薄い話をし続けてわざわざ仲間外れにすることもない。本当に信頼していたら、深く話すのだろうけど。おじさんみたいなタイプはそういうちゃんと向き合う人をめんどくさい人扱いする。

私は今も昔もその誰でも居られるような男性の集団ノリが、ちゃんと相手の話を聞いて、自分のことを話さねばならない女子会よりも楽に感じる時がある。ドラえもんのしずかちゃんや、キテレツ大百科のみよちゃん的に男子の中で謎に女一人混ざっている現象、ふと気づくと飲み会など未だにそうなっている時がある。私も居心地の悪いところには行かないので、その男性の集団が平和な民度を持つ人たちで、大方たまたま嫌な思いをしなかっただけかもしれないけれど。年相応に生きて来られなかった私は、しっかり人生歩んでいる女友達の話には、もう全くついていけないということから目を逸らしたくなっている。それなのにそういう人に嫌われたくないとも思ってしまう。

私も当初その男性の集団的距離感ぐらいでおじさんとは知り合いとして、関わるくらいで良かった。たまに音楽現場の制作の話とか聞けたら充分嬉しいことだった。が、度々送られてくるLINEでそうはいかなくなってきた。おじさんのあのままの逆ワードセンスや見下した態度で男性の集団の仲間内のノリならギリギリ通用することが、私だけでなくきっと世の女性たちほとんど無理なのだ。よほど感覚を麻痺させて、人に合わせて、なんとか椅子に座ろうとする人以外は。それはかつての私なのだけれど。
(この辺の心理は、最近読んだpha『パーティが終わって、中年が始まる』の「男はなぜ集まりたがるのか」を参考にしました)

家族の悩みは人それぞれの苦しみで、安易に知ったようなことは言えない。親が健在であっても、日々ストレスを感じている人もいる。絶縁状態の人もいる。元々親子関係が良好な人も、親が加齢で気難しくなって、介護やら何やらで不仲になる人もいる。母が元気であったとしても、私はうまくやっていけた気も正直なところあまりない。また別の苦しみがあったような気がする。

過干渉、毒親、それは母にも当てはまる。
私はアダルトチルドレンというやつなんだろう。
親の顔色ばかり伺って生きてしまった行く末は、大人になりきれない年相応の人生とは程遠い自己肯定感皆無人間の成れの果て。
母は短大卒業後、数年自宅で和裁の仕事はしていたもののそれもすぐ辞めて、外では一度も働いたことがなかった。ずっと専業主婦。しかし父の転勤で、引っ越しが多かったり、嫁姑関係もうまくいかず絶縁状態だったりと母の心労は相当であった。ストレスで難聴になってしまったり、認知症になる要因は沢山あった。
母は昔から特に趣味もなく、外出も嫌い、家に引きこもって、私とだけ話をしていた。

私は仕事に行く前の朝ごはんの時間に、一方的にずっと話してくる母の愚痴やら世間話をひと通り聞くことから一日がはじまっていた。寝起きの頭がぼぉーとしている時に、そのマシンガントークを聞いて聞き流すのがとても苦痛だった。昨日観たテレビの話など大半は今話さなくても良い話だった。が、その時間が母にとっては大事な時間だったのだろう。毎朝この時間があったので、私は母と今、話して意思疎通ができなくなっても、不思議と話し足りない感覚がない。一生分話した気がするけど、ずっとくすぶって生きてしまった私は母に自分の良い話は何もできなかった。

私が家を出たら、母はあっけなく呆けてしまった。
最初はうつ病のような感じで元気がなく、病院に行くのを嫌がっていたら、あっという間に症状が進んでしまった。その母を見るのがとてもつらかった。心が病みやすい私を心配して父は、母のことは気にしなくていいから自分を大事にしなさいと言った言葉に私は甘えてしまった。その後コロナ禍になって、より母と会わなくなって母は父のことも私のこともわからなくなった。ずっと私は結婚できないで、子供も居ないけれど、母が赤子のようになってしまった。

その後、母は認知症で身体を動かすのも困難になって、自宅であまり動かずに居たら、血栓ができてしまい入院した。一時は命の危険もあったが、回復した。素人介護は限界でその後は施設に入ることになった。その入院の時に、久しぶりに母に会った。その時はまだコロナ対策で病院も簡単に面会できなかった。もう私のことはわからないけど、浅井の言葉を胸に母に「ハッピーになってほしい」という気持ちで母に会った。

私は無駄なことかもしれないけど、実家に住んでいた頃の母が見慣れたかつての私の姿に今の自分を寄せて、ショートボブで明るい茶髪にした。私の顔を見るなり、母は泣いた。本当にわかっているかはわからないけれど、その時はたまたま私のことがわかったのかもしれないと思った。病人とは思えない握力で、私の手を握って離さなかった。それは別に思い込みでも良かった。私も泣いた。

病院からの帰り道、空はどんよりした曇天だったけれど、私には青空に見えた。本当の気持ちを本気で思えたら、空の色すらも変わるんだよ、と好きなバンドが歌っている言葉は、本当だなと思った。またこれから何度も母には会うし、つらい気持ちに襲われることもあるだろうけど、この日の空はずっと忘れないと思う。

先日、祖母が亡くなった。母の母親だ。
母は自分の母親が死んだこともわからない。
祖母の葬儀は、母の妹が喪主になった。
私の叔母である。
叔母さんは母と正反対のしっかりした人で、若い時は少し怖かったが、涙もろい人だった。
その時、叔母さんがかつて母とした昔話を私に話してくれた。その話は全て母から聞いて知っていた話だった。まるで、また母から聞くように叔母さんから話を聞いて胸が一杯になった。祖母も母も叔母も話し方が似ている。私だけでなく、母の何気ないようなことを覚えている人が他にも存在する、そんな当たり前のようなことがかけがえなく嬉しかった。

葬儀の日、久しぶりに会った叔父や叔母、みんなすっかり歳を重ねた従兄弟たちと私の父と、葬儀に来られない母の故郷の空をみんなで見た。石巻の空は快晴で、ブルーインパルスも飛んでいた。この日の空の青さと、春先の肌寒い空気は母の分も一緒に私の記憶に刻まれた。

ふと思いついたようにイーニドが言う。
「ねぇ、叫んでみない?ここで、大きな声で!」

「えっ、ここで?」

「言葉にしたくても言葉が出ないから、叫ぶの。
この曲みたいに……」
イーニドと、母の話をしながら、私のスマホで『忘レビ』を聴いていたのだった。

「いいね!このバスの中で、大声出していいの?」

すると、正体のよくわからなかったバスの運転手が前方の運転席から手をのばして「オッケーよ」のサインをした。
ノリノリに身体を揺らしていて、こちらを見てウィンクした。マレットヘアーで、サングラスの奥の瞳がこれまたキラキラに光っていた。

「えっ!このバスの運転手ってあいつなの???」

バスの運転手は映画に出てきた、ジョシュの働くお店の前にずっと居た、あの謎のヌンチャク男だったのだった。そうだ……あいつは別の時空線ではレッチリのMVで、タクシーの運転手役もしていた。運転はたぶん大丈夫な、はず。

「じゃあね、せーので叫ぶわよ」

二人で、声を合わせて
「せっ、せーの!」

「ワーーーーツ!」

「おぉーーーー!」

交互に謎の叫びがバスの中に舞う。
「アーーーーー!」

「うぉーーーーーー!!ーー!!」

「生きてるのつらいーーーー!!!」
「もうやだーーーーー!!!!」
「にげたいーーーーー!!!!」

「人をバカにするなーーーーーーー!!!!」
「足広げおじさん滅びろーーーー!!!」
「歩きタバコするやつも滅びろーーーー!!!!」

「悲しませるやつみんな滅びろーーーー!!!!」
「独身をバカにするやつも滅びろーーーーー!!!!」
「よく知りもしないでやっかむやつも滅びろーーーー!!!!」

「あーーーー!!!幸せになりたいーーーー!!!!」

「ハッピーにするぞーーーーー!!!!
なるぞーーーーー!!!!その気持ちだーーーー!!!」
「椅子は自分でつくるーーーー!!!」

二人で顔を見合わせて笑った。
久しぶりに腹の底から声を出して、笑った。

これは間違いなく、二度と戻らない美しい瞬間だった。
イーニドは忘れてしまうけれど、その時は確かにあった。母との思い出だって、これから母と対峙することだって、その時は、それは確かにあるのだ。会う度に決して慣れることはない悲しみから逃れられないけど、一歩でも幸せを思っていくことをやっていく。

脳内BGM
ircle「忘レビ」
ZAZEN BOYS「永遠少女」


文中の"空の色すらも変わるんだよ"の歌詞の曲
ircle「本当の事」
大事なことを見失ってしまった時に、忘れてはならない気持ちを思い出させてくれる曲

文中に登場した蛭子能収さん
蛭子さん歌唱の好きな曲があります
「いとしのマックス」(荒木一郎のカバー)

この曲も私にとって、まさかのミラクルがありました!好きなものはおそろしいくらいに繋がっている……その話もいつかできたらいいですね。

『ゴーストワールド』のヌンチャク男(デイヴ・シェリダン)が出ているレッチリのMV

この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
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