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『20年後のゴーストワールド』第2章(5)私の人生、人生の夏

バスでひとしきり叫んだ後、ふとこの言葉がお告げのように頭をよぎった。

「ねぇ、イーニド、真実の愛って考えたことある?」

「私たちには、今のままでは一生かけても見つけられないかもしれないわね」

真実の愛を見つけている人は確かにいる。
それは私の思い込みかもしれないけど、見つけている人にはその二人にしか出せないオーラがある。私のように、何もかもうまくいかなくて、血迷ってもう誰でも良い人間とは真逆の「真実の愛」を見つけている人に、昨年会うことがあった。しかも数組。おじさんにやきもきしていた私にはその人たちは眩しすぎた。その時、胸にガツンとパンチをくらったような感情はメッセージとして受け取らねばならないと、とっさに思った。

真実の愛を見つけている人は、当人同士にしかわからない言葉を尽くさなくても通じ合う相互理解のポイントがある、もしくは、当人同士でも危うい価値観のズレがたまに発生してもギリギリアウトにならないで許し合えるような感じ。当人たちが茶番だとうっすら思っても、そこをイタいと思わない空気を纏える。それは絶妙なバランスで側から見れば、滑稽なくらいの思い込みで成り立っている気もする。それは真実の愛と仰々しく言うことでもなく、普通の愛やら恋なのかもしれないけれど。

ずっと手の届かない完璧な真実の愛に固執するとまた、私は今までのような回り道を繰り返すのだろう。結果的に疲れてまた誰でも良い状態に陥るのが目に見えている。今まで自分のダメな状況を打破したいがために、誰かを好きになろうとしていた。そこから得られるエネルギーももちろんあるし、良い作用を生む場合もあるけれど、それで何かが奇跡のように変わると思う間違った錯覚に頼り続けてしまった。

そこは自分と向き合って、心の負債を増やすことなく、自分を傷つけてくるような人にすがったり、誰かの椅子に座らせてもらうのをあてにするのではなく、自分自身が立ち直らないとならない。まずは自分が一人でも生きた心地がする生活ができるように、自分の椅子は自分で作る。自分のダメさと向き合って、文章を書くことだって一つの椅子の形なのだろうと思う。

自分の椅子ができたら、自分が座るだけでなく、全てはわかり合えなくとも、時に誰かに座ってもらうこともできる。そこは完璧な椅子じゃなくても、完璧な真実の愛でなくても良いのだ。真実の愛、それは全員が全員見つけられるものではないし、好きで好きでたまらないといったような完璧なものでなくても良い。

近年、うまくいかない自分の人生と伴走してくれるような作品と出会えたことが、自分の心の椅子となった。第一章でも書いた冬野梅子さんやおとぼけビ〜バ〜など。それは突出した素晴らしい才能に対して畏れ多い感情ではあるけれど、受け手にそう思わせてくれるのも才能の一つだ。真実の愛は、あるかもしれないけど、全て分かり合える真実の愛はない。だけど、そこで自分を卑下することはないんだと教えてくれた。そう思えることで、これからも生きていける気がした。

「私は真実の愛、見つけるのは困難だけど、見つけた人の気持ちをわかってみたいとも思う。自分の正しい毎日を見つけて、感じてみたいと思う。心の負債が返せてないどころか、心の負債があること自体に、そしてそれが破産していることに気づいたばかりだからまだ道のりは長いけど」

バス前方、運転席からヌンチャク男が手を挙げてこちらに向かって何か言っている。そしてまた「オッケーよ」のサインをしている。

気がつくと、ずっと夜の景色だったバスの窓に日差しが入ってきて、急に車内がまぶしくなった。

急いで窓を、のぞくと海が見えてきた。
キラキラ光る海が見えてきた。

今乗っているバスは左へカーブをきりながら道を進んでいる。
オタクはピンときて、とっさに思う。

「ここタモリさんの好きな歌詞のところじゃん!」

今バスから見える景色はまさに
『左へカーブを曲がると光る海が見えてくる
僕は思う!この瞬間は続くと!いつまでも』

小沢健二の『さよならなんて云えないよ』の歌詞の一節だ。タモリさんはこの歌のこの歌詞の部分を、"生命の最大の肯定"で好きだと言っている。

この瞬間は続かないけど、続くと思うこと、またどこかでそんな瞬間にきっと出会う、そう思って生きるということが生きていくことなのだろう。前向きな思い込み、信じる強さ、それによって自分の人生を肯定することができる。

この歌の歌詞ができたのは小沢健二が鹿児島を車で走っていた時だと言う。このバスは今どこを走っているのだろう。とっさにGoogleマップで調べようとしたけど、電波がなくてどこを走っているかは全くわからなかった。左へカーブを曲がって海が見える世界中のどこかの一つとしかわからなかった。

海辺がキラキラしていて本当にきれいだった。
その後またトンネルに入ってバスの中が暗くなった。その景色は一瞬だった。美しい刹那の時、しかしこの瞬間は続く!と思うこと、自分はなかなかできないけど、そう思ってみようかなと思えるくらい胸に焼きついた景色だった。

私は小学生の時に、ラジオでたまたま聴いたこの歌がきっかけで、小沢健二が好きになったのだが、この歌を最初に聴いた時に

『心にいつか安らぐ時は来るか?と』

この歌詞を聴いた瞬間にとっさに「こない」と思ってしまった自分が悲しかった。その悲しい衝撃がずっと30年近く身体にしみついている。AIWAのピンクのラジカセでなんべんもこの曲を聴いたけど、聴く度に「こない」と思った。

転校が多くて、子供の時から気を張って生きてきた。世界は自分が居なくても回ることを、最初の転校で、小学二年生の時に悟った。転校して入った新しいクラス、そこは前日まで自分がいなくても社会が成り立っていた。知らないサル山に突如ぶち込まれたけれど、そこにはすでにそこの社会やルールがあってそこに合わせていかねばならない。大人になったら当たり前の話だけど、小学二年生には難しかった。しかも、大人にならまだ割り振られた仕事や役職でそこにいるべき理由が表向きにはあって歯車になれることが大半であるけど、子供はただ教室の隅に新しい席が用意されるだけだ。

顔色を伺って話も行動も何もかも合わせてようやく友達のグループに入れる。しかしそこは元々私が居なくても機能してた関係性なので、特に新入りの私は居ても居なくても良い。居心地の悪さがしばらく続く。ようやく打ち解けて仲間の一員になれた頃に、また転校することになる。その別れがとてもつらかった。しかしその別れは抗えなくて、さよならは受けとめるしかない。また違うサル山に所属する気苦労を思うと気が遠くなった。

やっと仲良くなれて心が通じた一瞬が、友の別れを悲しんだ顔が、二度と戻らない美しい日にいることなんだと思った。静かに心は離れていくけど、確かに存在した美しい瞬間。タモリさんの肯定感の部分もその経験からあっ、と思った。続かないけど心でずっと続く、もの。そこからもらった優しさを忘れたくないと思った。

今年の5月に小沢健二のライブをNHKホールで観た。この『さよならなんて云えないよ』も演奏された。オザケンは心なしかこの『心にいつか安らぐ時は来るか?と』の部分をとても力強く歌っていたように思えた。そして、ライブの最後、いつもならカウントダウンして「生活に帰ろう」と言ってライブを終える小沢健二が、この時は「闘いに帰ろう」と言ったのだった。

ライブは夢の時間だ。それは今まで私が生きてきて存在することが無いと断言していた唯一の安らげる時でもある。いつもより呼吸ができる時である。ライブか終われば生活へ、安らげない時へ、現実のハードモードに戻らねばならない。それは闘い。

今回、その夢が一瞬にして現実に忙殺される構図を思ったら、今まで到底無理だと思っていた、ほっとする気持ちがほしい、大丈夫になりたいという気持ちが湧き起こって自分でも驚いた。夢からもらった力はやはり生きる力に変えていかないとその存在した夢の時間に失礼だ。どうせ、ダメだ、夢みる方がつらい気持ちになるとはなから諦めていたのに、どうせダメなら、ダメだからこそ無謀でも夢みて何かやってみることのほうがまだ絶望しかしていないよりかいくぶんマシだ。

後に小沢健二がこの時のライブを編集して配信した。2024年夏の、つい最近の話だ。その配信で「生活へ帰る」日常は「ライブへ帰る」非日常のための、アンコールの拍手をしているような時間と言っていた。必要以上に日常に、怯えて常に戦闘モードじゃないとやっていけないのはやっぱりつらすぎるし、それがしっくりくる。ライブに行くのはただの現実逃避じゃない。夢の時間を、安らげる時を、しっかり体感して、それはその時だけで終わらないことを知ることなのだ、と思ったりした。

「脱・どうせダメ」
ここまできて、やっと背中に貼られた文字。
ほんのわずかな安らぎでも、安らげるときはやってくる、信じて動いてみることが私には必要なんだとやっとわかった。時間がかかった。安らげないと思ってしまってから30年近くの時間が経っている。

この歌にはタイトルに表れているけど、明確に別れが存在している。どうしようなくやってくる別れに対して受けとめないといけないけどまだ抗いたい気持ちがある。この歌は数年後に『美しさ』というタイトルになって、曲のアレンジと歌唱がゆったりとなり、歌詞の細部が絶妙に変わったバージョンが登場する。(シングル『ある光』のカップリング)

そこで印象的なのは"くだらないことばかりを喋りたい"という歌詞だ。『さよならなんて云えないよ』では"くだらないことばかり喋りあい"とまだ喋っている描写だ。さよならを抗っていた時から、この歌はまた時が経ってさよならを受け止めたのだ。くだらないことばかりを喋り合えてる時は、まだ別れははこないから、その場面で時を止めてしまいたいとすら思う気持ちが伝わってくる。

現実を直視した時にさよならは訪れる。そしてさよならは『美しさ』として思い出はほんのり美化させて(美化させないとさよならに抗って前に進めないから)なるべく良かった気持ちだけを残して、それが優しさになるようにポケットにしまわれていくのだ。

この瞬間は続く!と思うこと、安らげる時はいつか来ると信じること、は真実の愛を見つけることにも繋がるのかもしれない。真実の愛を見つけて生きている人にはその信じる強さがあるのかもしれない。

何年経ってもいくらでも歌詞を考察できる、素晴らしい歌だと思う。今、ここまでの人生を経てもまだ新しく感じることもある。それが歌や言葉の面白く、飽きないところだ。この歌も最後『何度も何度も考えてみる』という言葉で終わる。今は
『いつの日か oh baby  長い時間の記憶は消えて
優しさを oh baby  僕らはただ抱きしめるのか?と』
いう歌詞が身に染みたりもする。

そして、ライブでも演奏された"生きることをあきらめてしまわぬように"小沢健二の『天使たちのシーン』の歌詞がまた改めて私の胸を打った。

突如左へカーブを曲がって、見えた光る海。
今、季節は夏真っ盛りだ。

THE STATISFACTIONというバンドの『朱夏』という曲が頭に流れる。今年リリースされたアルバムのタイトル曲である。レコ初ライブを下北沢のシェルターで観て、とても良い感情をもらった。何もしないまま歳を重ねてしまって、とうに青春は終わってしまったけれど、人生を季節に例えるとまだ私も夏だ。朱夏なのだ。次の白秋、秋がやってくるまでにはまだ時間がある。

この先も人生は続く、ハードモードすぎるけど続く。中年でより身動きができないことも増えるだろう。早速、体力の衰えを感じている。今までにないストレス症状に身体も悲鳴をあげている。若い人と同じやり方じゃどうにもならないことばかりだろう。諦念の重さは若い時より重量級だけど、どうせダメ、に飲み込まれてしまう前に、夏真っ盛りに思い切り生きてみたいと思う。正しい毎日を生きて、感じてみたい。

脳内BGM
ジ・エイト「正しい毎日」
THE SATISFACTION「朱夏」

"心にいつか安らげる時は来るのか?と"
小沢健二「さよならなんて云えないよ」

タイトルはこちらから
ピチカート・ファイヴ「私の人生、人生の夏」

この曲は「モナムール東京」のカップリング曲で、実家に8センチCDがあって中学生の時よく聴いていた。2曲とも好きだったが、はじめて安野モヨコの『ハッピーマニア』を読んだ時と似た胸騒ぎがした。気がついたらこの歌の主人公みたいな人生になってしまった。カヒミ・カリィへ提供したバージョンも好き。

読んで考えて共に一喜一憂し、人生を伴走してくれる私のバイブル冬野梅子さんの『スルーロマンス』先日最終巻の5巻が出ました。読むたびに泣いてしまう。今回表紙見ただけで泣いた。この作品がなければここまで影響を受けて、色々自分を顧みて文章書くこともなかったです。

この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
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