結婚指輪
ジジッ、ジジジ…
薬指の上で電動針が踊っています。
「猫にひっかかれるのと同じだよ」
彫師のお兄さんはそう微笑みましたが、いえいえいえ。
猫のそれがヒリヒリなら、こちらはジンジンとでもいいましょうか。
それでも思ったよりずっと痛くありません。
なのに、じっとりとからだが熱い。
指の上を這うバイブレーション、電動針の機械音に
私はすっかり怖気づいています。
「大丈夫、すぐに終わるよ。」
ロランが私の右手を握っています。
そもそも結婚指輪をタトゥーにしようと言いだしたのはこの私です。
後悔なんかしてません。こんなの痛いうちに入らない…、とはいえ怖い。
見たらきっと、もっと怖い。
薬指から顔を背けたまま、5分ほど経過したでしょうか。
「終わったよ」
機械音が鳴りやんで、火照った指にひんやり、消毒コットンが触れました。
あぁ…、緊張が一気にほどけます。
「お待たせしました」
お兄さんが仰々しくコットンを外すと…
―わぁ…!
うっすら血の滲んだ黒いアルファベット、
指の上で優雅にくつろぐ「L」の字。
ふたたび、胸が高鳴ります。
××××××××××××××××××
はじめて会った日、袖口からのぞいていたカフカのサイン。
それまでタトゥーに興味なんてなかったけれど、
文学者の署名なんてちょっと素敵だ―、
そう思ったときにはもう、彼に惹かれ始めていたのかもしれません。
どれも黒一色とはいえ、ロランの上半身はらくがき張のごとく賑やかです。
左肩には大きな黒い樹のシルエット(私はこれが一番好きです)、
右肩にクリムトの「水蛇」。
さらに右胸には黒髪と白い髪、ふたりの女性。
三十を過ぎてから節目ごとに入れたというタトゥーは、
さながら象形文字の年譜です。
その年譜に今日、私の名が加わりました。
××××××××××××××××××
真上から横から斜めから。
自分の指とロランのそれを代わる代わる眺めます。
外すことも消すこともできぬ誓い、
紛れもなく人生でいちばん大きな約束ごと。
「さぁ、おふたりさん。誓いのキスをどうぞ!」
お兄さんに促され、唇をかさねます。
「おめでとう、お幸せに!」
飴色の光に包まれた、夕暮れのタトゥー・サロンに拍手が響きます。
” ぴったりの場所に、とうとうたどり着いたのよ。"
かすかに疼く薬指が、そう私にささやきました。
2017年6月
うふふ