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ついに壊れた話

下書き保存、「2か月前」に残っていた記事がある。
書きしたためていたけれど、赤裸々すぎて公開するのをためらってお蔵入りになっていた記事だ。

今読み返してみて、これは記録に残しておこうと思い直し、少し加筆して整えたものが今回の記事だ。休職間もないころのヒリヒリした私の心が残っている。休職に入った1月後半の頃に、日記のようにちびちびと書いていた記事だ。自分の人生において、過労によって心身が壊れた記録として残しておくことにする。

こんなことになっても、まず何したいかって、書きたかったんだよね。それでいま、書いてる。

オフ2日目

会社のパソコンもスマホもオフにした。今日で2日目。

ひさしぶりに湯船に浸かると、蕁麻疹で真っ赤にただれた両脚が哀れだ。考えることは、放り投げてきた仕事のことばかり。あのメールの返信が明日あたりに来るかなとか、私と突然連絡が取れなくなった社外の人たちは怒っているだろうとか、新人に引き継いだ仕事がその後どうなったか、とか。

新年からチーム全体を管理するポジションになった。新年明けて最初の週の金曜日の1月13日、上司から「どう?一週間やってみて」と声をかけられて唖然とした。一週間。。。

私の激務は一か月以上続いていた。

昨年12月1日、元上司が急に辞めると聞いて、このポジションを引き継いだ(今思うとなかば押し付けられたような形だった。。。身バレしたらまずいので詳細は省く)時から始まっていた。怒涛の引継ぎと、自分の抱えている重い仕事もこなしつつ、このタイミングでなぜか頻発するトラブルも同時に対応していた。自分が3人いても大変だったと思う。我ながら、本当に良く頑張ってさばいてきたと思う。

辞めていく上司が、仕事を私に押し付けるミッションに成功して気が楽になったのか、こちらが猫の手も借りたいほどに忙しいときに機嫌良くヘラヘラと雑談をふっかけてくるのにも腹が立った。人当たりは悪くないが、ナマズのようにつかみどころのない、冷たくて賢くてずるい男だった。

12月の稼働は過労死ラインだった。月の残業時間があと少しで90時間に届くまでになった。社内の人たちが次々と年末の休みに入っていく中、最後の最後まで出勤していたのは私だけだった。顧客もみんな休みに入って、メールの受信箱が静かになったところで、私は一人、引き継いだ仕事の勉強をしていた。母が昼に部屋まで持って来てくれたオムライスは夕方をすぎて一口だけ手をつけたまま冷えた。

12月は仕事のこと以外記憶にない。クリスマス近くに妹の誕生日があったけれど、そのお祝いにも行けなかった。夜の20時に一旦仕事にキリをつけて、妹の家に向かおうと、まさに椅子から立ち上がろうとしたところで顧客からの着信。急ぎの指示が入った。

年末年始も引継ぎの勉強とプレッシャーで、全く休んだ気がしなかった。まさにノンストップだった。元上司だったナマズ男は、クリスマス前に早々に休みに入り、1月はたった1日だけ顔を出して逃げるように辞めていった。

現上司の「どう?一週間やってみて」は単に新年明けてからの稼働のことを聞いただけということは頭ではわかっているが、私はこの1ヶ月自分の限界まで働いて、血反吐を吐く思いだった。

限界がきた

新年明けても忙しさは変わらないどころか、増していた。もう色々なことが起こりすぎてよく覚えていないのだが、とにかく仕事を回せなくて、息苦しかった。魚が沖にあげられて息ができずに口をぱくぱくしているようだった。呼吸が苦しい。

仕事はさばいてもさばいてもさばいてもやってくる。知らない仕事に囲まれて、ひとつひとつ調べたり聞いたり確認しなければ進まない。頼れる前任はもう退職してしまっていない。今までは慣れた業務で超スピードで仕事をこなしていたので、これはかなりのストレスだ。

そして周囲の目。あいつでリーダーが務まるのかとか(その手のことを私に直接言ってきた人もいた)、頼りないと思われている感じとか、今思えば、良く知りもしない仕事を全部うまくやらなきゃと自分で自分にプレッシャーをかけていたとも思う。小さなミスが大きなやらかしに感じていた。自分の仕事すらわかっていないくせに、みんなを安心させなきゃ、みんなを守らなきゃと思いすぎていた。でも誰も私を守ってくれなかった。ついに限界が来てしまった。顔色が土色になり、呼吸はうまくできなくなり、両脚に蕁麻疹が広がり「止まらないとマジでやばい」と本能が感じた。

超多忙な中、どのようにして予約したのかこのあたりのことはよく覚えていないのだが、気づいたら心療内科を予約していた。年末からずっと私の働く姿を見ていた母の助言があったようにも記憶している。

心療内科でのこと

予約をしたのは、ダニーロとのことで心を病んで何度か通ったことのあるなじみの心療内科だ。ねずみ男みたいな冷たい目をした男が院長をやっているクリニックだ。薬さえくれればそれでいいというだけの気持ちで通っていただけの。

渡された小さな札に書かれた番号で呼ばれて入った部屋には女性の心理士がいた。透明のシールドで仕切られたデスクの向こうに座った心理士が「どうぞお座りください」と椅子をすすめた。「前回は去年の6月ですね」と心理士が言うが早いか、私は泣き出してしまった。とにかく涙が止まらない。涙というか、嗚咽だ。両手で顔を覆いつくして泣いた。途中で眼鏡をはずして泣いた。自分の肩が大きく揺れて、笑っているようにも見えたかもしれない。ティッシュをすすめられた。とにかく泣きが止まらない。「・・・すみません」と仕切り直そうとするのだが、また泣き出してしまう。どこかで止めなきゃと思えば思うほど止まらない。さすがに自分でも「やばい」と思った。こんなこと人生で初めてだった。

去年の6月。ダニーロとのことが不安だったのか、心療内科に来ていた自分。その夏のダニーロとの別れ。秋の卵巣手術。自分の気持ちを癒す間もなく、大きな仕事に巻き込まれて、窒息寸前だった。でも、泣いているあいだはそんなことまったく考えていなかった。とにかく嗚咽が止まらなくて、まいった。嗚咽している時って、なんにも考えてない。ただ嗚咽しているだけだ。「去年の6月」というワードがトリガーとなってスイッチが入ったようだった。

オフ3日目

1月20日。初詣に行くことにした。電車で3駅の繁華街の汚い街だ。都内でダニーロと暮らしていた頃は初詣に行く習慣をすっかり忘れてしまっていて、しばらく初詣に行っていなかったが、今年は行こうと決めていた。

暗い気持ちのまま一人神社に向かった。空はどんより曇っていた。お祓いをしてもらうことにした。申し込み用紙に「厄年」「交通安全」「商売繁盛」そして「災難除け」があったのでそれにチェックを入れた。厄払いをしてもらった後、お札をもらった。

神社の境内を抜けると、汚い繁華街を抜けて真っすぐ帰宅することにした。気晴らしにカフェという気分にもならない。汚い街が好きじゃない。お祓いをしてもらって驚くぐらいに気持ちが軽くなったのもつかの間、会社を休んでいる罪悪感がやはりうっすらとつきまとう。これからどうなるんだろう。

Suicaに5000円をチャージした。まだ2000円残っていたので合計7000円入っている。帰宅すると財布にSuicaが入っていない。どこかで落としたのだ。災難除けのお祓いをしてもらったばかりだと言うのに。ゲッターズ飯田の占いどおり、今年はやっぱりついていないのかもしれない。

オフ4日目

朝目が覚めて、気持ちが明確になっていた。ダニーロのことも、会社のことも、うまくいかない自分を呪っていたが、悪い縁が切れただけだ。その言葉が降りてきた。ものごとは角度を変えると違ってみえる。

Twitterでもインスタでも、プロポーズエピソードとか、仲良しの夫との話題からは目をそらしたくなる。辛い時寂しい時、寄り添ってくれるパートナーが私にはいない。でも、二人でいて感じる寂しさは、一人で感じる寂しさの倍だったこと。自分の人生のためには全力で動いても、私のためには一度も動いてくれなかったダニーロ。どんなに仲が良くても、彼とは人生を一緒にやっていけなかった。仕方がなかったんだ。わかるでしょ?そう思っても、虚しさが残る。これまで彼と一緒に暮らす日々を夢見て頑張ってきたけれど、結局それは叶わなかった。遠距離期間を含めて6年も時間をかけたのに!

仕事にしても、結局今、私に残された感情は虚しさだけだ。社畜と自嘲しながらも派遣社員でもガツガツ仕事して、社員とか派遣とか関係なくどんどん仕事を覚えてよく働いた。それでも、働いた結果私に残るものってなんだろう。ただ駒のように使われて、だめになったら捨てられるだけの派遣社員じゃないか。

私は仕事が好きだった。上司のポジションを引き継ぐ前までやっていた役割は、自分にとても合っていた。人と人を繋ぐ仕事。情報伝達の仕事。私の持って生まれた積極性と社交性とが、自由な社風に合っていて、一緒に働く人にも恵まれて、のびのびと仕事ができていたと思う。チームに自由な感じの人が多かったのがよかった。細かいどうでもいいことをチクチク注意してきたり、陰湿なことをねちねち言うような人はいなかった。ユーモアの通じない四角四面な場所が私には合わないのだけれど、ある程度の自由さのある職場で私は自分の持ち物を大いに広げて2年間、仕事を進めることが出来たと思う。

もちろんいいことばかりではなかった。がむしゃらに、ときに社員以上に働いても、私は非正規なので評価の対象にはならないし、時給が上がるわけでもない。むしろうまく使ってやれという社員がいたのも知っている。とくにうちの会社は経費が潤沢にあるわけでもない、むしろコストを絞れ絞れと言われている中、私がどんなに役に立ったとしても、私の時給を上げたり、まして社員にしたりするのは簡単ではなかったのはわかる(最初の契約と逸脱して責任の重い仕事もしてたので時給は上げろやとは思うけれど)。

だったら派遣会社も正社員切り替えの実績がある会社です、なんて言わなきゃいいのに。そんな白々しい売り文句に乗ったのは自分だけれど。

もっとも2021年春、スイスから戻って、底をつきそうな貯金の穴埋めにとりあえず働こうと思っていた当時は、いずれダニーロを追って海外へ行くつもりではあったものの、いつまでたっても結婚話が現実味をおびてこないので、「社員になれるかもしれない派遣契約」は私にとっても都合が良かったのだ。思えば私も職場を利用したのだ。

それにしてもよく働いた。やりがいがあったから、夜遅くまで働くことはそんなに苦じゃなかったし、新しいことを覚えるのは楽しかった。職場の仲間に恵まれたことも、もちろん大きかった。

しかしその後、ダニーロと破綻して行く場を失った私は、42歳独身で、先の見えない雇用形態で雇われているという事実が、急に現実味をおびてきた。簡単に言えば結婚もなくなった上に、将来性のある仕事もない状態に陥ってしまったのだ。

何度も言うけど私は本当によく働いたので(社員ですらよく理解していない仕事を任されて連日夜明けまで働いたり、会社として起こしたミスのしりぬぐいのような仕事、クライアントに頭を下げることも含めて、責任の生じる仕事もやっていた)職場には社員にして欲しい、せめて時給を上げて欲しいと繰り返しリクエストしたが、会社が貧乏だから無理とかすげなく言われて、結局叶わなかった。

「ダニーロのことも、会社のことも、悪い縁が切れただけ」その言葉が目覚めとともに降りてきた朝、なくしたと思っていた7000円がチャージされたSuicaが机の下から出てきた。

休職を終えて

書きかけの記事はここで終わっていた。

休職期間は一か月で終わった。今は職場に復帰している。

自分でもまずいと思って心療内科に行き、心理士の前で嗚咽が止まらなかった1月16日、私は休職のための診断書を書いてもらうつもりだった。さすがに嗚咽が止まらないような状況なのだから、すぐにでも休職の診断書を書いてもらえるだろうと信じていたが、心理士とのカウンセリングのあとに通された院長との診断では「休養が必要ではあると思う」と言うものの「患者から診断書を求められてハイわかりました、書きますとは言えない。診断書を書くには確たる証拠が必要だ。お勤めの会社に産業医がいるかどうかを調べて、まずは産業医面談を受けてください」と言われて、がっくりした。もう極限状態なのはたしかなのに。しかし院長の言うことはもっともだ。その日に書いてもらった診断書には「傷病名:適応障害 今後しばらくの間、通院加療を要する状態である」と書いてあった。

しかしもうこのまま業務を遂行することは到底無理な精神状態だったので、翌日、上司に朝一のチャットでそれを伝えた。体調が悪すぎてしばらく休みたい、とストレートに書いたと思う。上司からは「突然のことで驚いていますが、、ひとまず了解しました」と返信があって、「チームのみんなに報告しなきゃいけないから全員集めろ」と指示があった。20人近いメンバー全員の前で吊し上げにするつもりか。精神的にそれはとてもできなかったので、各チームのリーダー3人だけを集めると「全員集めろと言ったはずだ」と叱られた。私が心身ともに極限を迎えている深刻さは、上司に全く伝わっていないことがよくわかった。上司は「ひとまず一週間休もうか。パソコンを完全にオフにするとかえって復帰がしにくくなるから、稼働を極めて少なくする、というのはどうだろう」と提案したが、自分にメンションされているチャットの通知を見たら絶対に反応してしまうし、メールも無視できるわけはなく、そんなことをしたら全く休む意味がないと思ったので、とりあえずわかりましたと言いながらも、その日の定時に私は仕事のパソコンとスマホの電源をオフにして、そこから一か月、一切開かなかった。この人の言うことをまともに聞いていたら、死ぬと感じた。

休職開始から一週間後、産業医面談を受けた。たしか年末ごろに、派遣会社から「ストレスチェック」なるお知らせがきて、やってみたら「ストレス度マックス、危険な状態です」という結果が出て、産業医面談を希望される場合はご連絡ください、というボタンがあったので申し込んでいたのだ。それがたまたま休職に入って一週間後に設定されていたのだった。産業医には、過呼吸を起こしているような心身の状態をそのまま話した。「非常にまずい状態だと思います。通っている心療内科にもう一度行き、産業医も休職を勧めていると伝えてください。すぐに休職の診断書を書いてくれるはずです」と言ってくれた。

翌日すぐに、また心療内科に行くと、やっと診断書を書いてくれた。今度の診断書には「今後一か月間の通院加療継続および自宅療養を要する状態である」と書いてある。派遣会社に連絡すると、一週間の休みが一か月になった。

つきまとっていた罪悪感は、2週間ぐらいでなくなった。まず、三食の食事を家族と一緒にまともにとること、仕事の過度のプレッシャーから解放されたこと、これだけでまず顔色が戻った。休職前の私は、顔色が土色のように黒く、頬ががっぽりこけてしまっていた。顔に血色が戻り、頬のへこみもだんだんと戻ってきた。それから、母に「しばらくあなたの笑った顔を見ていない」と言われていた私の顔に笑顔が戻った。

休職中に昼夜逆転することだけは絶対に避けたいと誓っていたので、朝は9時には起きて、毎日化粧をした(毎日していたのでうまくなった)。

食べること、寝ること、笑うこと。生きること。これを奪われて得たお金ってなんだろう。能力がないならないなりに、ほどほどに働いて夕方には仕事を終えて、多くも少なくもない、自分に見合ったお金をもらって、好きなものを食べ、好きな服を着て、好きなことをして、ほどほどに会社に貢献し、会いたい人に会ってしゃべり、家族が悲しければ話を聞いて、家族と楽しいことを一緒にして。そんなことが幸せじゃないかなと思う今日この頃だ。


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