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セルトラリン服用の記録 5

いつのまにか春になっちまった。土曜日に心療内科に行くときは、眼鏡にマスク、そしてニット帽を深くかぶって通っていたのだが、ニット帽はもう似合わない陽気になった。初診が2月25日だから、薬を飲み始めて2ヶ月近く経った。

薬はできればやめていきたいと思っていて、仕事を始めたことでメンタルに活気が出て調子も戻って来たので、前回の診断でセルトラリンは50mgから25mgに減らしていた。

しかし、ここ一週間ほどしんどく、仕事も集中できないくらいの焦燥感と苦しいほどの落ち込みとで、仕事のキリの良いところでベッドに横たわって1時間ほど寝込んでしまうことがあった。薬を飲み始めて以来、こんなに苦しくなることは初めてだった。

新しい仕事を始めたことで生活リズムも整い、順調に減薬していけそうだと思った矢先だった。原因は全くわからない。仕事も慣れてきたし、前みたいに余計なことを考える時間もぐっと減ったのだ。もしあるとしたら、先週の土曜日に叔父を亡くしたことかもしれない。5月2日の誕生日を一緒にお祝いしようねと約束したのに、見舞ったその日の夜に逝ってしまった。「お前とこうして話せるのも最後だ」と言うし、まるで最後みたいな話し方なので、また来週見舞いにくるよと何度も言ったのに。

私はショックだったのだろうか。叔父は長いこと闘病していて、ここ最近ぐっと悪化して入院したのが先月。先週の土曜日は初めてのお見舞いだった。体の大きな強い人だったのに、息をするのもやっとという感じで、これで最後みたいな言葉を私にかけた。力強く私の手を握りながら。

もう長くはないと親戚みんなわかっていたし、苦しんで生きているよりも早く苦しみから解放してあげたいとみんな言っていた。だから見舞ったその日の夜に叔父が亡くなったと聞いたときは、あれが本当に最後になってしまったという悔いはあったものの、おじちゃんが楽になってよかったとも思ったのだった。

日曜日にさしかかるほどに遅い土曜日の夜におじちゃんは亡くなった。日曜日になったばかりの深夜2時に報を受けたママが私の部屋に半泣きで飛び込んできて「おじちゃん(ママの兄)が亡くなったって」と言った。私たちは泣きながら抱き合った。

月曜の通夜と火曜の告別式は会社を休んだ。十何年ぶりで着る喪服をタンスから出した。十何年ぶりに会う年上の従兄弟たちに囲まれて、おじちゃんの死を悼みながらも私はその懐かしさに嬉しい気持ちだった。読経を聞きながら、踊るような心を戒めていた。

母方の親族はネアカが多く、家族葬だったこともあって、葬式なのに斎場に何度も笑いが起きた。誰かがふざけて笑わせたり、笑わせようと思ってなくても誰かしらが笑っているのだった。みんなおじちゃんの死をきっかけに再会できたことをどこか喜んでいるように見えた。

水曜日に仕事に復帰して、ガツンとたまったメールをさばいていった。私の中に哀しみは残っていなかった。ただ、みんなで再会できた場におじちゃんがいないことだけが悔しくてたまらなかったが、おじちゃんは肉体的に楽になったのだと思うことでその悔しさを打ち消していた。

木曜、金曜と落ち込みがひどくて、仕事の合間にアラームをかけて横たわってこんこんと眠ったりして何とか今週を乗り切った。土曜日は心療内科に行って、帰りに駅の近くのまずい韓国料理を食べたっきり(まずいとわかっていて入ってしまった)、帰宅してすぐパジャマに着替えて、15時半くらいから死んだように深く寝てしまい、ママが「21時よ」と起こしに来るまで一度も目が覚めなかった。いつも思うのだが、こういう時に勝手に起こされるのは本当に迷惑だ。眠れるだけ眠っていたい、途中で覚醒したくない。起こしにくるなら、21時はすでに遅いのだ。喧嘩にならないようにやんわりと「私が寝てたら起こさないで」と頼んだが、効き目はないだろう。ママは自分の作ったご飯はその日のうちに食べてもらいたいのだから。

とにかく、そんな一週間だった。心療内科の気の小さそうな医師にここ数日の心の調子を話すと、それでは25mgを多めに出しますから、しんどいときは2錠飲んで50mgにしてください。そうでもないときは1錠だけ飲んでくださいと言った。この人は引っ越しのサカイのCMに出ていた ♪ 勉強しまっせ引越しのサカイ ♬ の鼻髭男に似ていて(鼻髭はないが)言葉の最後に「よろしい?」と言うのが口癖だ。「よろしい?」と言われると私はいつもムッとしてしまう。

昨晩はセルトラリンを2錠飲んで、あんなに寝たのにまたすぐに眠りに堕ちた。断薬まで、もう少し時間がかかりそうだ。

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