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【創作】ヘリオス 第2部 第10話


優成くんの震える声が続ける。

「貴方は馬鹿だ。肝心なところで間違えて、凪先生を地獄に追いやった。凪先生の心につけた傷は、すぐに癒えるものじゃないでしょう。スランプから救い出したいんだったら、家元の意見に逆らってでも、何か別の方法があったはずだ」

「優成くん……」

息を吐いて優成くんは私に言った。

「大きい声ばかり出してすみません。みんなして駒だの、代役だの、凪先生の心を蔑ろにする発言は許せない。……俺の言いたいことはこれだけです。後は2人でよく話し合ってください」

そう言って額に手をやり、息をついた後、優成くんは出て行った。


暫く、晃輝さんも私も、話が出来なかった。しんと静まり返った楽屋で、ただグルグルと頭の中が回るのを落ち着かせるのに時間が必要だった。

「晃輝さん……今までどこにいたの」

「3か月ほどはオーストリアにいた。転勤はしなくても長期出張はしていた。その後はオーストリアと日本を行ったり来たりしていた」

「私がいなくても、晃輝さんは平気だったの」


晃輝さんが私の手を取って、自分の頬に寄せる。

「そんな訳がない。胸が粉々に砕かれたようで、凪を傷つけた罪悪感で眠れなかった。ずっと……苦しかった」

「......じゃあどうして」

「凪、君は俺がいなくても生きていけるけど、箏がなければ、生きていけないだろう」

「そんな……!」

そう言って口をつぐんだ。お箏がない生活なんて、確かに考えられない。だけど、晃輝さんがいなくて、こんなに苦しかったのに。そんな簡単にどちらかを選べることじゃないのに。

「俺は馬鹿だな。山田君に言われて気づいたよ。凪、俺は、自信が無かったんだ。凪はいつも輝いていて、困難に立ち向かっていたから、凪が苦しい時、こんな俺じゃ支えられないんじゃないかって、そう思ってしまった」

「じゃあどうして、話してくれなかったの」

「それが俺の弱いところだ。凪の前では、虚勢を張りたかったんだ」


「私......分からない。......頭がいっぱいで」


「そうだな、凪には考える時間が必要だ。また話し合おう。明日家に行く」

晃輝さんは席を立ち、私の側に来て抱き締める。
私は身体を固くして、震える声で泣きながら拒否をした。


「嫌」

晃輝さんはそれでも、空気を抱くように優しく私を抱き締め続けた。

「......凪。酷い男だと思っているだろう。本当に悪かった。だけど、凪。今でも君を愛している。心から。勝手なことばかり言っているが、君がいなくてずっと苦しかった」





エアコンの効いた稽古場で、練習をしている。心と身体は伴わない。こんなにぐちゃぐちゃなのに、演奏は完全に元に戻った。むしろ現在の方が表現力が身についたと自負できる。

お箏を弾いていたら、優成くんがやってきた。


「凪先生、東雲さんに会っていないんですか」


優成くんは心配そうな顔をして、お箏を挟んで正面に座る。

「そうだね」

私はお箏で遊びながら返事をする。


「どれだけ会っていないんですか」


「10日くらいかな」


「毎日来てくれているみたいですよ」


「うん、そうだね」

ポン、ポン、とお箏の上で手が動く。


晃輝さんは毎日、お花を持って来てくれる。だけど私は晃輝さんに会いたくないので、家に上げないように言っている。届けてくれているお花に罪はないから飾っているけれど、部屋に飾りきれないので稽古場にも飾るようにしたら、家中が花でいっぱいになってしまった。



「せっかく会えたのに、どうして会わないんですか。もう嫌いになったんですか」

「違うの。ただ頭の中がぐちゃぐちゃで」


晃輝さんを嫌いになれるはずがない。でも、簡単に私を捨てた彼に、どうやって会ったらいいんだろう。

晃輝さんがしたことは、常々から私が望んでいたことに過ぎない。晃輝さんがいなくなってからの、いつもの堂々巡りの思考に陥る。川崎流の駒である私のために、私のお箏の能力を最優先させた。それなのに何を今さら、捨てたなんて言うんだろう。私の長年こだわっていた信念なんて、こんなに軽かったんだ。

優成くんが駒だって怒っていた気持ちが、今なら痛いほど分かる。お箏がなくても晃輝さんを引き止める魅力が、自分になかっただけの話だ。何も与えることが出来ないのに、貴方に側にいて欲しかったと、子どもみたいに心が癇癪を起こしている。

情けなさと羞恥、強い恋情が入り混じって、感情が無秩序でどうしたら良いか分からない。悪いのは自分だって分かっている。だけど心が、やっと演奏能力が戻ったのにまた滅茶苦茶で、ただもう少しだけ、時間の猶予が欲しい。

次に会ったら晃輝さんは、私に別れを告げるのかもしれない。このままでも私たちはもう駄目なんだろう。だけどもう少し、このまま、もう少しだけ。



すっかり涼しく過ごしやすくなった週末のことだった。私が稽古場で片付けをしていたら、優成くんが入って来た。

「優成くん、来てたの」

それには答えずに、低い声で言った。

「来てください」

そうして私の手を取って、無理に何処かへ連れて行こうとする。

「優成くん、どうしたの?優成くん!」


早足で手を引かれて着いた応接室のソファーに光輝さんが座っていた。通すなと言っておいたのに、どうして。


「俺が中に入れました」


「凪」



大好きなハスキーな声で呼ばれて、パニックする。慌てて逃げようとすると、優成くんに二の腕を掴まれ引き戻された。

「優成くん」

離して、と言おうとするも、また悲しみに溶けてしまいそうな顔をしていたので、何も言えなくなる。光輝さんと向かい合ったソファーに無理やり座らされたかと思ったら、両肩を後ろから押さえられ告げられた。



「凪先生、先生には先生の思いがあるのかもしれないけど、これ以上は手遅れになります。いい加減、ここで東雲さんとちゃんと話し合ってください。心の内を洗いざらい、ぶつけてください。そうするまでここから出しません。いいですね」



そう言うと、出て行って引き戸を閉めた。



出さないと言ったって、鍵もないのに、と思っていると、すぐにガタガタと扉の方で音がする。


「扉に細工をされたな。山田君は本気だよ、凪」


ぽかんと光輝さんを見つめると、こう言った。


「生殺しだからな......。その割にお茶が2人分、既に用意してあるところが彼らしい。山田君のためにも、話をしよう。全部話すよ、凪」


この人の声も、見つめる瞳も、好きだ。近くにいるだけで、心が震える。それなのにどうして逃げたくなるんだろう。私の晃輝さんへの想いと晃輝さんの想いを両天秤にかけて、私の想いの方がずっと重いから。それだけで、許せないんだろうか。

今でも愛してると楽屋で言ってくれたのに、どうして信じられないんだろう。信じた途端また捨てられそうで怖い。私の演奏能力がいつか下手になってしまったとき、愛情がなくなってしまいそうで、恐怖でいっぱいになる。


「凪、俺が信じられないのは分かるよ。だけど君を愛しているのは本当だ。

俺が君を知ったのは、本当はもうずっと前のことだ。凪、君は中学生の頃、東京ソラマチの音楽祭に出ただろう。君はたくさん中傷を受けていた」

そう言えば昔、押上にあるその商業施設に呼ばれて新春音楽祭に出たことがある。

「お子様は帰れ!」

「ここはお遊戯会じゃないんだぞ!」

「色気がねえ!」

新春を祝う屋台で酒気を帯びたお客様から、あの時はひっきりなしにヤジが飛んできて、馬鹿にされ笑われて、恐くて仕方がなかった。

晃輝さんが落ち着いて話を続ける。


「それなのに毅然としていた、と言うのが話の筋だが、凪は怖がっていた。初めて俺に会ったときのように、怯えていて、それを隠そうと必死に取り繕っていた。凪がとても小さく見えて、ヤジを飛ばす大人にうんざりしたよ」

晃輝さんは私の目を見た。私が大好きな、濁りのない瞳。



「だけど凪、君は演奏し始めた。あんなに怖がっているように見えたのに、騒がしい中で、綺麗なお辞儀をして弾き始めたんだ。

君を纏う空気は、いつも演奏する直前に変わるんだ。騒音も気にせず演奏に熱中していた。こんなにも美しい演奏があるのかと思った。やがて周りも静かになって、最後は拍手喝采だっただろう」


思い出した。あの時はヤジを飛ばしていたおじさん達にも、最後に褒められたんだ。


「俺はその頃、演奏家としても作曲家としても父や母の血に及ばないと気づいて、やさぐれていた。音楽から遠ざかって遊んでばかりいたよ。そんな時だったんだ」

晃輝さんは手を伸ばして、私の手に重ねた。もう戻って来ないと思っていたものが返ってきたような気がして、泣きそうになる。


「凪の演奏を聴いて涙が出た。君はまだ14歳だった。それなのに自分のスタイルを確立した、唯一無二の演奏を披露していた。この子はどれだけ練習したんだろうって自分を恥じた」

そこで晃輝さんは話を切った。

「そんな前のこと、覚えていたの」

14歳なんて、ニキビもあっただろうし、足元がぽっちゃりしていたし、恥ずかしすぎる。


「俺を救ってくれた時のことだから、忘れないよ」

何か大切なものを見せた後のようにそう言って、晃輝さんは微笑んだ。


「凪はウィーンで演奏したこともあるだろう。俺はその時、現地に留学していたんだ。あの時のあの子が来ると知って、何とかチケットを取って聴きに行った。外国の舞台で、君はまた怖がっていて、必死にそれを隠そうとしているように見えた。それから後は同じだ。凪は既に確立された、清涼とした演奏をし始めた」

ウィーンでの演奏も、よく覚えている。オーストリア人は背が高くて恰幅も良く、当時私はそれだけで怖さを感じてしまった。


「何とか守りたいと思ったんだ。こんなに恐怖に立ち向かってさえ、真摯に演奏に向き合う音楽家を、支えられるようになりたいと。

俺が演奏を続けて来たのは、演奏家になるためじゃない。経験を通し演奏家の思いを真に理解して、的確な支援が出来るようになるためだと、その時自然に思えた。凪、君が道を照らしてくれたんだ」

晃輝さんは私の手の甲に緩やかにキスをした。


「それから俺は箏も習ったし、凪の演奏会は幾つも聴きに行った。その度に綺麗になって、質の高い演奏をする凪を憧れの気持ちで見ていた。俺も負けたくないと、俺なりの道を真摯に進もうと、その度に思っていた。だから凪、俺のヘリオスは君なんだよ」



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