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やりすごしかたの極意(後編)

 一人暮らし貯金を始めたのは、新卒で勤めた警備会社を1年も経たないうちに辞めて、大阪のとあるゲーム制作会社に勤めはじめてからである。
 この会社については、以前にこちらでも少し書いたのだが、大手ゲームメーカーの下請けをしていた。赤と白のファミコン時代、カセット式のソフトである。


 社員も若い子が多くて、ゲームデザインとかプログラム、音楽などの仕事なので、普通の会社より自由度が高くて楽しく働けた。
 それに、ゲームのプログラムを完成させるのに1年近くかかっていたので、音関係のデータ作りはとっくに終わって調整だけになる事が多く、私たち音チームは大抵ヒマだった。
 残業もなし、休日出勤もなし。血を吐くような毎日のプログラマーさんに申し訳ないくらい、お気楽なものである。


 なので、勤めはじめて半年くらいの頃に、私は初めての一人暮らしをする事にした。
 物件を探してとある私鉄沿線の新築ワンルームマンションに決め、秋に引っ越し完了した。
 実家を出るのに特に反対はされなかった。
というか、全部自分で決めて、自分のお金でやったので、事後承諾で、親に保証人にだけなってもらった。


「やりすご・前編」はコチラから☆ ↓


 やった!これで一人、好き勝手に暮らせる!
ものすごく解放感があった。部屋も好きなインテリアにして、食器や何やかやも自分の好きなものを選んで… ちょうど、'87~88年くらいのことで、アフタヌーンティーとか中国雑貨の大中とか、かわいい雑貨屋さんがブームだった。
 バブル前夜です。消費することが楽しくて、夢があった時代。キャリア・ウーマンとかいう言葉がもてはやされていたものの、別にそれを目指すわけでもなく、私は明確な目的も持たないまま、学校の延長みたいな会社で、みんなとワイワイ毎日を楽しく過ごしていたわけである。


 こう書くと、ホントにお気楽な能天気娘だなー。
 まだあの頃は、今ほど景気は悪くなかったし、なんとかなるさ、という楽観的なゆるさがあった。
 ただ、生来の飽きっぽさがある私は、そんな居心地のいい会社にも3年いたら飽きてしまい、何の先行きも決めずに辞めてしまった。
 こんな事を書くと、四方八方から火炎瓶とか飛んできそうだなー。平成不況で、就職活動もままならなかった方には申し訳ない。こんないい加減で。時代に余裕があったという事で。


 普通、ここいらで結婚とかいう選択もあったのだろうけど、彼氏もいたのだけれど、そういう気には全くならなかった。

 結局、私は最終的に一人になりたい性分で、誰かが部屋に一緒にいると落ち着かないのだ。
 外で、みんなと楽しくワイワイ騒いでいても、最後は早く一人の部屋に帰りたくなる。
 全く寂しくないわけでもないのだけれど。一人の時間が何よりも大切。これは、今の若い人たちとも共通する気持ちかなと思う。


 当時は、一人が好きなコなんてそれほどいなくて、友だちもみんな寂しくて最終的に結婚したりしていたから。ただ、それで寂しくなくなったかどうかはまた別の問題。その後、離婚した友達もいる。しなかったコもいる。どちらにしても、他人と暮らす、生活するのはすごく大変な事だし、凄いことだと思う。私には無理だった。


 その後は、フラフラしながら東京で暮らしてみたり、また関西に戻ったりと、あてのない生活を送った。
 年齢的な事もあるが、会社に縛られたくないという気持ちから、アルバイトや非正規の仕事をするようになった。
 この記事前半冒頭の、中国の若者たちと同じだ。決まった会社の仕事よりも、漠然と何か面白い事がしたかった。
 ただ、それが何かはわからないままで。
 東京で出会った、やはり何か見えない的を狙っている子たちと仲良くなったけれども、皆一様に居場所が無くて、辛い思いをしていた。
 本当に個性的な子が沢山いた。


 一人、同い年の男の子で私と同じようにやりすごしの方法で生きている子がいた。
 その子は、自分のセクシュアリティの問題を抱えていたから、割と早くにその方法で自分の世界を守っていたように見えた。
 ただ、相当にやりすぎたというか、もともと頭がよかったんだろうけど、東大に行ってしまったのだった。多分、そんなに必死にならなくても入れたんだと思う。
 どこか飄々としていてマイペースで、それでいて自分だけの世界を強固な意志で持ち続けていたのは、すごいと思った。
 彼は映像作家として今も活躍している。


 私はといえば、その後の阪神大震災をきっかけに実家に戻り、人と一緒に色々と商売みたいな事をしてみたり、友だちとミニコミを作ったり、駅売店に勤めたり、あるプロジェクトに関わったりと、それなりに楽しい経験と普通あまり見られない景色も見たりした。
 それから、大病を患って、初めての入院、手術をした体験も大きい。この時に一緒に入院していた人から聞いた数々の話は、今も私にとって宝物である。
 

 私がしてきた事は、何か一つの事を極めて、時間とともに積み重ねることではない。
 むしろ、ただ一つにとらわれないように、多面的に経験したり、人と接したり、わざとバランスを取るように、ちぐはぐな選択をしたこともある。
 それは、そう言ってみれば何か信念があってやっているように聞こえるかもしれないけれども、端から見れば、単にフラフラして何もしていないのと同じである。
 現に、私は父から何度も、ちゃんと英語を勉強し直して、ちゃんとした仕事に就くように言われた。できるはずだとも。何をしているのかと。


 それはそうだな、と私も思う。
 ただ、私はそれをやりたくないのである。
どうして、貴重な自分の思考や時間を赤の他人の利益のために、一生懸命、自分犠牲にしなければならないのか。それがわからない。
 勿論、私も非正規雇用で働いて、会社にずいぶんとやりがい搾取もされたと思う。
 ただ、それは自分の中で線引きをして、ここまでは会社に力をあげてもいいが、これ以上はいやだ、というのを決めていたからできた。


 ただ、ここからは、そのやり方はもう通用しないと思う。まだ、先は見えないけれど、自分が納得できるやり方で、自分が自分に意味を与えられることを、これからはやっていきたい。
 今、既にやっている地域との連携活動や、福祉の分野、多様性のある様々な人たちとの関わり。
 そんなことからヒントを得て、少しずつ、自分に何ができるのか、自分が、自分と関わる人との間に何を見たいのか、確かめながら、歩いていきたい。

 私がこれまでにしてきた「やりすごしかた」は、他人になかなかわかってもらえないやり方だと思う。それは、わかりにくくて、説明しづらいことだから。
 やりたいことをやる、というよりは、やりたくないことを「絶対に」やらないやり方、といおうか。消去法である。逃れ方である。


 誰にでもわかりやすくて、誰もが納得できるやり方でやる方が、賛同も得られるだろうし、きっとうまくいくだろう。
 だけど、それがどうしてもできない人がいる。あなただ。わたしだ。


 わたしたちは、そんな人種なんだと諦めて、世間一般の常識や決まりごとは、一切捨て去って、あくまで、自分ルールで、やっていくしかない。
 何をしたっていいのだ。自分ルールなのだから。自分で決めさえすれば、それで完了。
 それが世の中のためになるかとか、誰かの役に立つかとかは、一切考えなくていい。
 それは、単なる付随物である。
 あくまで、自分自身のためだけにやること。
自分に自分自身で愛を与えること。
 人を見返してやろうとか、思い知らせてやるとか、そんな不純物もいらない。


 ただ、自分で決めること。
 自分の意志のみで、決めること。
 それが魔法の使い方なのである。
 ずいぶんと長くなってしまいました。
 ここまで読んで下さった方お疲れ様でした。
 読んで、損したかい?
 じゃあね!
 
 

 
 
 
 

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