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パパのオレ、オレになる?! 第7話

第7話 戸惑い

エレベーターに乗ってスマホを見ると、19時56分だった。ピッタリだ。203号室に着くと「Green Harmony」と白い文字で書かれた温かみのある木製の表札が目に入った。予約案内に書いてあった名前と同じだ。ドアはドアストッパーで止められ、空いていたけれど、再びインターホンを押した。

「お入りください。」と声がして、中に入ると「お待ちしておりました。」と
30代後半くらいで、肩の下くらいまでのストレートの黒髪が似合う、穏やかな印象の女性が迎えてくれた。

「よろしければ、スリッパをお使いくださいね。」
女性に促され靴を脱いだ。玄関前に用意されていた薄いベージュにグリーンの葉と大きな黄色の花があしらわれた、Green Harmonyという名前のイメージにピッタリのスリッパを履き、廊下を進む。

廊下の先には、廊下と部屋を仕切るスペースに、薄青や黄色などのいくつかの色がある暖簾がゆるりと両脇で止められていた。

暖簾を抜けると、10畳ほどの空間の右手に楕円型の木製のテーブルがあり、奥には深いグリーンの布張りの椅子が2脚置かれているのが目に入った。その周囲には様々な種類の観葉植物が置かれていて、天井からぶら下がっている植物もいくつもある。それなのに空間や光を圧迫しないデザインに居心地の良さを感じた。

部屋の一番奥には窓があるのか、カーテンが閉められていた。このカーテンも、スリッパと同じ、薄いベージュに緑の大きな葉と黄色の花のデザインで、この空間にとても似合っていた。

女性は椅子に向かって手を向けて、「こちらの椅子におかけください。」と、着席を促した。「お荷物は隣の椅子か、横にある籠をお使いただいても大丈夫です。」と細やかな気遣いもしてくれた。

まだ緊張はしているものの、ここで、この人になら落ち着いて話ができそうだと感じた。そういえば、猫の姿は見えない。

それから女性は、部屋の入り口にある暖簾を止めていたフックをサっと外すと、左右対称の、白、ベージュ、黄色、黄緑、薄青などの色をした何本かの細い布で全体ができている暖簾がサラッと広がり、廊下との空間が仕切られた。

女性は俺の向かいにある白い椅子に座ると、「秋山さん、改めましてこんばんは。キャリアコンサルタントの板橋奈緒と申します。この度はカウンセリングをお申込みくださりありがとうございました。初めてなので少しだけ自己紹介をさせていただきますね。私はキャリアコンサルタントになって10年目で、人事などで企業勤めを経て、今は独立して6年目になります。私については、皆さん下の名前の方が言いやすいとおっしゃって下さるのと、私自身も子どものころからを含め名字は何度か変わっていて下の名前の方がしっくりくるので、良かったら下の名前で覚えていただけると嬉しいです。もちろん、名字でもどちらでも構いません。」

だからなのか。YouTubeで最後に出されるカウンセリングルームの案内では下の名前しか出ていなかったので、俺の中ではすっかり「ナオさん」としてインプットされていた。YouTubeで声を聞きなれているからか、初対面という感じがしない。でも、この人が「ニャ」と言っているのは不思議なような、でも違和感がない感じもする。

「では、早速ですが、初めてなので少しこのお時間についての説明をさせていただこうと思います。よろしいですか?」と、微笑みながら、俺の目をときどき見ながら話をしだした。

「はじめに、このお部屋についてですが、大変恐縮なのですが、防犯上の理由で念のためドアを開けさせていただいています。開けておくのと閉めておくのは、どちらが安全かという話はクライアントさんとよく笑い話になるんですけど。」と、奈緒さんは苦笑した。なんだかその話し方と笑顔がまったく飾っていなくて、また少し緊張が解けた気がした。

「このお部屋は他のお部屋に行く際には通らないので、誰かに聞こえたりすることもないと思いますが、ご了承のほどお願いします。」と、奈緒さんは頭を下げた。

「それから、今日は何かお悩みがあっていらしてくださったと思いますが、事前のご案内の通り、今日は初めてなので、今のご状況を伺う時間が多くなることをご承知いただければと思います。そうはいっても、早く解決されたいというお気持ちは重々承知ですし、時間を争う場合もあると思うので、そのあたりは一緒に状況やお気持ちを整理しながら柔軟に進めたいと思っています。」

奈緒さんの話す一言一言が、その通りだと思い、身体にスッと入ってくる感じがする。

「ここまでのところで、何か質問や伝えておきたいことなどはありますか?」

この人にだったら、何かあったら途中で伝えることができそうだとも思い、「大丈夫です。」と、俺は答えた。

「それから、事前のアンケートもありがとうございました。キャリアコンサルティングやその他の相談が初めてだいうことでしたので、緊張や不安もあるかもしれませんが、この時間は秋山さんのための時間なので、疑問点やリクエストなどがあれば遠慮なくお伝えくださいね。」

俺は大きくうなづいた。その反応を見つつ、奈緒さんは「良さそうでしょうか?」と俺に問いかけ、俺も「はい、大丈夫です、お願いします。」と答えてカウンセリングは始まった。

「それでは始めさせていただきますね。ちょっと唐突に感じるかもしれませんが、秋山さんにとってこの時間をどんな風にしたいか。もしくは、イメージでいいので、秋山さんにとってこのお時間が終わった時、どんなふうになっていたらいいなと思いますか?言葉でも、イメージでも、なんでもかまわないので、思い浮かんだものを教えてもらえますか?」

こんなことを聞かれたことなかったので、俺は戸惑いながら、しばらく上を向いたり下を向いたりしながら考えると、ぼんやりとだけど「課長に、転勤の辞退をはっきり言える…」という思いが湧いてきた。なんでこれなんだ?とか、こんな答えでいいのか?と思いながら、「うーん…」と唸っていると、奈緒さんから「思い浮かんだことなんでもいいですよ。正解とかないので。」と優しく言われ、それならと、「課長に、転勤の辞退をはっきり言えたらいいです。」と伝えた。

すると奈緒さんは、「課長に、転勤の辞退をはっきり言えたらいい、ですね。」と俺の言葉をそのまま繰り返した。その言葉を聞く俺は、自分が半信半疑で言った言葉なのに、そう、それが望みなんだ、という風に力強く思えるような気がしてとても不思議だった。

するとすぐに、奈緒さんは一度目を閉じて、大きく深呼吸をしたようだった。奈緒さんの肩が大きく上がった。目を開けると「それでは、改めて、お話ししやすいところからでかまいませんので、今の状況やお悩みををお話していただけますか?」と、俺に話をするよう促した。

俺はどこから何を話そうか…と思案した。まずネクステージソフトワークスという会社で入社6年目のシステムエンジニアであること。これまでは開発の仕事をしていて、1年ほど前からシステムの運用管理の仕事に移り、ワークライフバランスが保たれていい感じであること。結婚をしていて 2歳の子供がいて、妻と朝晩で役割分担をして子育てを回していること。

そして、先週の金曜日に突然転勤の打診をされ、その行き先が大阪であること。共働きの妻はついていく気もないし、単身赴任も受け入れがたいと言っていて、自分としても家族と一緒にいたいので転勤の話は辞退をしようと思っている。でも朝のラインを見て、辞退を伝える前に何か他に選択肢がないかということを相談に来た、ということなどをつらつらと伝えた。

すると奈緒さんは、秋山さんはシステムエンジニアのお仕事をしていて、2歳のお子さんと共働きの奥様がいらっしゃるんですね。奥様とお子さんを大切に思っているのはもちろんのこと、奥様への配慮や、協力すること、対等な関係であることを大切にしているように感じられました。そして今回は、突然の転勤の打診をされたことで戸惑ってしまわれたのですね。そこで、なにかよい答えがないかとご相談に来てくださったのだ思いました、というフィードバックを返してくれた。

フィードバックを聞き終えたときに、ものすごい衝撃を受けた。俺は、理沙自身を大切に思っていることだけではなくて、理沙の仕事も俺の仕事と同じように対等に考えていることを理解してもらえている!と、嬉しかったし、「戸惑っている」という、自分で言葉にできていなかった状態を受け取ってもらえたことへの喜びとかそういう類のもので、今までに感じたことのない衝撃だった。

「そうなんです!その通りです!」身体が前のめりになり、思わず声も大きくなった。

「そうだったんですね。」と奈緒さんは穏やかに微笑んで、「ただ、私が受け取ったことは、必ずしも秋山さんが思ったり、感じていることと一致するわけはないので、秋山さんにとってとしっくりくるものはそれでいいのですが、そうではなくて、こういうことなんです、というのはお伝えいただけると嬉しいです。」といった。

そして、「今回は、転勤のお話をどうするかに向けて、秋山さん自身が感じていることや、願っていること、満たしたいことを、一緒に見つけていきましょう。」と、言葉を続けた。

「ここまでで、さらにお話ししたくなったことや、付け加えたくなったことはありますか?」と聞かれたけれど、俺の頭の中は「たしかに、俺は戸惑っている。」という納得感でいっぱいだったから、「先ほど、戸惑っている、と言ってもらいましたが、戸惑っている。そうなんですよね。戸惑い、本当にその通りで、すごいしっくりきました。」と伝えた。

「突然転勤を打診されて、戸惑っている。そうなんですね。言葉にできてもできなくてもいいのですが、もう少しその戸惑いがどういうものか、伝えられそうなことはありますか?」

言われて、俺は考え込んだ。この戸惑いの原因はなんだ?家族がいるのに転勤を言われたから?でも、それが答えではないのはなんとなくわかっている。だけど、そこから先が全くわからない。腕組みをしたり、首をひねって考えたりしても、全然何もわからなかった。

奈緒さんは柔和な表情で、ああでもないこうでもないと俺が悩んでいるのを見守ってくれていたけれど、しばらく待って、俺が顔をあげてお手上げの表情をしたのを見て、「あとから分かってくるかもしれませんしね。」とにっこりと微笑んだ。

理由はわからないけど、この「戸惑い」はすごく大事なものに思える。それなのにその正体が分からないことに不安を感じ始めていたけど、落ち着いた声でそう言ってもらえると、後から分かってくる、だから心配しなくてもよい、と思えてきた。

「じゃあ、少し質問を変えてみたいんですけど、先ほど、奥様の意向も、秋山さん自身も家族と一緒にいたいので転勤は辞退する、とおっしゃたのですが、そこは二人とも一致しているんですよね。でも、あまりスッキリしていない感じがありそうです。」

そう言われて、また、その通りだ!と思った。理沙とも、自分の意向とも一致しているはずなのに、なぜこんなに悶々としているのだろう。

「いやー、本当にその通りです。一致していたら、スッキリ伝えられているはずですよね。」自分で言葉にして、なんでこれが分からなかったのかと苦笑してしまった。

「転勤を見送るのにスッキリしないのは、何が引っ掛かってるんでしょうね。」奈緒さんが問いをシェアするようなニュアンスで言った言葉から、俺は自然と、「何が引っ掛かってるのだろう」と考え出した。

引っ掛かってるものはなんだ?やりがい?昇進?大きな仕事?ああ、そういえば、拓海は昇進って言ってたっけ…頭の中にいろいろ浮かんできて、だんだんまとまらなくなってきたことを察したのか、「もう少し考えた方がよさそうですか?それとも、一緒に考えましょうか?」と言ってくれた。

その言葉をもらってからも少しだけ、俺はとりとめのない思考に引っ張られてしばらく考えたものの、その後「すみません、何を考えていたのか分からなくなってきました。」と苦笑しながら言った。

奈緒さんも笑って、「分からなくなりますよね。先ほどは、転勤のお話をスッキリ見送れない理由は何が引っ掛かるからなんだろう、という感じの話をしていました。」

ああ、そうだった!

「私が感じていることをお伝えしてみてもいいですか?」と、奈緒さんは言った。「お願いします。」俺は間髪入れずに答えた。

奈緒さんは、「分かりませんが、新しさとか、成長、挑戦とかでしょうか?」と言った。挑戦、という言葉を聞いたときに、心にすごく残るものを感じた。挑戦…。

「挑戦。あるかもしれません。すごく引っかかりました。」

「転勤先にいくことは挑戦、なんでしょうか?」奈緒さんが聞いてくれたけれど、別にそういうわけではないとも思う。

「うーん…。今までより上の立場で、大きなシステムになるので、そういう要素がないことはないんですけど、うーん…。」歯切れが悪く、言葉が尻切れトンボになってしまった。

少しの間をおいて、奈緒さんは、「秋山さんにとっての挑戦がどんなものかということを伺ってもいいですか?」と聞いてきた。「もちろんです。」と答えた俺に「では今までで、挑戦した、と感じられた場面を教えてもらえますか?」と奈緒さんは尋ねた。

いろいろありそうだと思った。

「一番は、大学時代の夏休みにアメリカで1か月半ほど、一人旅をしたときですね。あれは本当に挑戦でした。英語もろくにできないのに、今思えばよくやったなって思います。」

それから、ぼんやりと仕事のことが思い浮かんできた。

「仕事では、入社してからは忙しかったこともあって、結構がむしゃらでしたね。開発とか、設計とか見積もりとかいろいろやったんですけど、どれも面白かったし、仕事として与えられたものではありましたが、最初はどれもやったことがなかったので自分にとっては挑戦だったと思います。大きなプロジェクトでしたし。」

「あとは…子育てもそうですね。おむつ替えから公園遊びまでなんでもこなせるようになったのは、これは挑戦というより成長かもしれませんが、できるようになったなとは思います。あ、育休を3か月取ったのは、自分にとって挑戦でした。社内で取得している人はまだほとんどいなかったので。」

何が自分にとって挑戦なんだろうと考えながら話していると、話がぐちゃぐちゃになっている気がする。ちゃんと答えられているのかが分からなくなってくる。

「ありがとうございます。”がむしゃら”とおっしゃってた時が、大変なことのはずなのに、すごく嬉しそうというか、イキイキした感じがしました。私がそう申し上げるのを聞いてみて、どんな感じがしますか?」奈緒さんに言われて、最初はちょっと意外な気がした。

でももう一度、入社2,3年目の超絶忙しい頃を思い浮かべたら、大変だけど新しいことに日々挑戦する喜びみたいな感覚とかが湧いてきて、逆に、最近こういう充実感は感じていないなと思った。

「では、もう一度転勤先を思い浮かべてみると、何か最初とは違うイメージが湧いてきたりしますか?もちろん、とくになくても大丈夫なので、あったら教えてくださいね。」

見たこともない大阪のプロジェクトを漠然と思ってみた。みんなが忙しく仕事をしている。前よりは、ネガティブイメージがなくなっていると感じた。でも、そこに行きたいかといえば、やっぱりそうじゃない。俺は、大阪ではないけど、もうちょっと、やったことのないことにチャレンジする仕事がしたい、と思った。

それを奈緒さんにそのまま伝えると、「大阪のプロジェクトを思い浮かべると、みんなが忙しく仕事をしていて、ネガティブイメージはなくなった。でも、行きたいわけではない。だけど、やったことのないことに挑戦できる仕事をしたい、と思っているんですね」と伝え返してくれた。

はじめの時と一緒で、「その通りで、俺はそう思ってるんだ」と思えた。

それからもいろいろと話を進める中で「もっと力を出したい」と思っていることも分かってきた。そうこうしているうちに時間は過ぎ、「では、そろそろお時間のこともあるので、お話を整理していきますね。」と奈緒さんが言葉にして、俺は我に返った。

「突然転勤の打診をもらって戸惑いが生まれて、こちらに来てくださいました。奥様と秋山さんと、お二人とも転勤は見送るという意見は一致しているはずなのに、スッキリしない状態でした。そして、この時間が終わった後には『課長に、転勤の辞退をはっきり言えたらいいな』という希望を持ってらっしゃいました。『挑戦』や『もっと力を出したい』、ということがキーワードとして出てきました。こんな感じで、改めてこの時間を振り返ってみて、気づいたことなどがあれば言葉にしていただけますか?」

なんだか圧倒された気分になっている。悶々として打ちのめされていたはずが、気づけばすごく元気になっているし、勇気が湧いてきたような気もする。少しだけ考えて、「まだハッキリとはしませんが、挑戦したり、もっと力を出したいという気持ちが自分の中にあって、それが転勤先に重ねられていたんじゃないか、と思えました。でも、転勤先に行くのも違うというのもはっきりしたので、転勤を辞退することははっきり言えそうです。」

「よかったです。」奈緒さんはほっとした顔で微笑んで、カウンセリングは終了した。

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