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パパのオレ、オレになる?! 第8話

第8話 波間

自宅の玄関に着き、なるべく音の出ないようにそーっと鍵を開ける。この時間は翔太の寝かしつけをしていることが多くて、カチっとでも鍵の音が聞こえると翔太の目がパチッと開いてしまい、理沙の機嫌が悪くなる。

家に入り、ドアノブに手をかけたまま扉を閉じる。閉まってからドアノブを回し、そっと手を放す。靴を脱ぐときにも細心の注意を払い、靴をそろえてから廊下を進んだ。すると、ちょうど寝室隣にある翔太の寝ている子供部屋から出て理沙が玄関に向かってきた。

「おかえり。どうだった?」
「すごくよかったよ。」
「よかったね。でも、それじゃあ何が良かったのか分からないって」理沙が半分苦笑、半分不満というような顔をする。そりゃそうかと思いながら、「まだ起きてるならご飯食べながら話すよ。ご飯ある?」と聞くと、「あるよ。野菜炒め。」と返事が返ってきた。「やったね!とりあえず手を洗ってくるわ」と言い、洗面所に向かった。

リビングに行くと、テーブルには、俺のお茶碗にこんもりよそわれた白いご飯と湯気の出た野菜炒め、そして麦茶のコップとお箸を理沙がきれいに置いてくれていた。

俺は、就寝時間が近づいてきた理沙に配慮してかなり端折ったけど、奈緒さんとの話を理沙に伝えた。

二人とも転勤はしない問うことで一致しているのに腑に落ちていなかった理由には、挑戦を求めているのかもしれないと思ったことや、それでも転勤先で挑戦をしたいとは思わなかったので、転勤を受けないことを決めて、明日にでも課長に話すということを伝えた。

それから、突然の転勤話に戸惑っていたことが原因で、理沙にも八つ当たりをしてしまったことを謝った。

「あれから私も考えたんだけど、私もアツトの話をきいたあと、私の仕事どうしようとか、翔太の育児もどうしよう一人じゃできないって、わーってなって結構パニックだったんだよね。めちゃくちゃどうしようって思ってるのに、アツト結局日曜夜まで何も言わなかったじゃん?もう寝たら会社に行かなきゃいけないのに。朝も会わないじゃない?それで、そのまま月曜を迎えると思ったら、抑えきれなかった。ごめんなさい。」

理沙も謝ってくれた。

それを聞くと、そりゃあ転勤かもしれないと言われて、そのままになってたら理沙の立場からすると荒れても当然だという気もしてきた。申し訳ないことをしたと思った。

「それにしても、すごいね。1時間でそんなにスッキリしたんだ。うちの会社にもキャリア相談室とか確かそんな名前のところはあったけど、使うとか考えたことなかった。役に立つんだね」
「うん。めちゃくちゃスッキリした。」

「それにしても、アツト、挑戦したいって思ってたんだ。」

「それ、俺も意外だった。でも考えてみると子育ても俺にとっては挑戦って感じではあるんだよね。」

「そういわれてみればそうだね。だから結構楽しそうにやってるのかな」

「楽しそう?」

「うん、嫌いじゃなさそう」

子育ては楽しい半面『やらなきゃ』という感じも結構あったので、理沙からはそう見えていたんだというのはちょっとした発見だった。

「もし寝た方がよさそうだったら、寝てもいいよ」
理沙のいつもの寝る時間になってきたことを気にして、俺はもう少し話したい気持ちを抑えて言った。

「ありがとう、今日は気持ちよく眠れるわー!」両手で思い切り伸びをしながら理沙が嬉しそうに言った。

そっか。眠れなかったのは、俺だけじゃなかったんだな、とその時気づいた。

翌日の火曜日は昨日と打って変わってスッキリとした気分で出社をすることができた。課長に伝えようと思ったものの、スケジュールを確認すると課長は今日明日で大阪への出張になっていた。最短の木曜日の13時に課長の時間を抑え、メールで面談依頼の連絡もしてその時を待った。

木曜日の昼。昼食を早めに食べ終わって、会議室に向かう。出社時間に融通が利くのもだけど、昼を食べる時間も就業規則上は決まっていても、実際は自由なのがこの仕事のいいところだ。

実際に課長を目の前にして、いざ伝えるときには緊張するかと思ったけれど、その場になってみれば意外とあっさりと言えた。

課長から理由を聞かれて、「仕事をするなら全力でやりたいので、東京に残るより大阪でどっぷりと浸かってやりたい。でも、少なくともあと数年は家庭の事情で出張もできれば控えたいと思っている」と、嘘偽りなく伝えた。

課長からは、少なくともほかには今見えている案件がないので、しばらくの間は大きなプロジェクトには入れない可能性が高いけれど、いいのかと聞かれた。さらに、今より一段上の立場で仕事をするかどうかの意味で、昇進のスピードにもかかわってくるだろうということも。その時に心にチクッとした痛みがなかったかといえば嘘になるけど、今はこの選択肢しかないし迷いはないと思った。小さな覚悟をもって、「いいです」と答えた。

さすがに、その日の帰り道くらいは「よかったのかなぁ」なんて思ったけど、もう言ってしまったことは仕方がないし、やっぱり転勤は考えられない。それに、一方的に会社に飛ばされるのではなく、断らせてもらえたのだから、これでいいと思うことにした。

突風のようなこの出来事が過ぎ去った後は、また穏やかな日々が戻ってきた。だけど、鈴本君と絡む時間が増えたことは俺にとって大きな刺激になった。

鈴本君はどんな小さな業務にも前向きで、仕事に対してすごく貪欲だった。鈴本君を見ていると、心が洗われるようだった。

たとえば、システムを使っているお客さんからの問い合わせで、現在の仕様になった経緯の話が出たときだった。説明をしたときに、理解が予想以上に早かったので事情を聴くと、隙間時間で今運用しているシステムの要件定義書から順に、仕様書を読んでいたということだった。トラブルがあった時には見る必要があるのでデータの在り処はシェアしていたけど、まさか事前に見ているとは思っていなかったので驚きだった。

思わず「すごいよね。仕事に対するその原動力はどこにあるの?」と聞くと、「時間は有限って知ったからですかね」と斜め上からの答えが返ってきて俺は面食らった。その様子を見た鈴本君は「すいません、俺、入院中動けなくて暇すぎて、自分で動いて何かができるのがなんでも楽しいって感じですかね」と気を使って言い直してくれた。

またある時の雑談では、いずれまた開発に戻りたいと思っているというので理由を聞くと「たとえほんの一部だとしても、自分の仕事を世の中の役にたつ形で残したいという欲求でしょうか‥‥たぶん、秋山さんみたいに父親になったら、『これ父ちゃんがした仕事だぞ』って子どもに言えるかなとか思うんですけど、僕はまだ子どもがいないので自分勝手な欲求って感じです。」なんて言われた。

そのときは反射的に「子ども自体が自分の残したカタチっちゃカタチだからね」なんて答えて、「確かにその通りですね!全然考えたことありませんでした!やっぱりパパになるってすごいことですね」と、鈴本君が答えてくれてなんとか乗り切ったけど、重い気持ちが残った。

それは、思わず自分が仕事の話から逸らしたことに、すぐに気づいたからだった。俺は翔太のためにできることをしていることは間違いないけれど、翔太に誇れる仕事をしているのか、というと自信が持てなかった。

奈緒さんのキャリアコンサルティングで「自分の思いを受け止めてもらう」ということの威力を体感してから、自然と、自分の思うことをちゃんと受け止めようと思うようになった。

それからというもの、主に通勤時間で猫というか奈緒さんの動画を何回か見返していた。そこで「自分が本当は何を求めているのか」を知る方法を学び、前よりは少しずつ背伸びをしない自分が分かるようになってきた気がする。

だからこそ、前だったら「俺は翔太のために仕事をしている。頑張ってる。えらい!」という感じで、それ以上のことを考えなかったけど、今は「自分は本当に、翔太のために誇れる仕事ができているのか?」と考えるようになった。

そう思い始めてから、ここ最近を振り返ってみると、翔太のために今の仕事でいい、と思うのは、現状に対する俺のプライドを保つためだったんじゃないかとも思うようになった。答えなんてわからないけど、その可能性を思えるようになったのは自分でもかなり成長できたんじゃないかと思う。

実際この間、理沙にも「前よりアツトが分かるようになった気がする」と言われた。「アツトが分かる」って俺には意味が分からなかったけど、変なプライドとかよりも本音に近づいたからじゃないかと思う。

だけど、成長しても悩みはつきもので「自分は本当に、翔太のために誇れる仕事ができているのか?」という今の俺にまとわりつく疑問は、正直に言えば結構うっとうしい。誰に言うわけでもないし、乗り越えてこそ男だけど。この面だけで言えば、何も考えていなかったときの方がよほど楽だった。

戻れたら楽だけど、でもそれこそ翔太に誇れない。そう思うと、前よりは誇れる自分でいることこそ、父親としてのプライドを死守したいことだと強く思う。

転勤の話を断ってから、夏休みを挟んだこともありあっという間に1か月が過ぎた。

いつもの月1の顧客定例会議に、今日から鈴本君も同席だ。

顧客の会社の入っているビルの前で10分前に鈴本君と待ち合わせをした。オンラインでは話したことがあったけれど、事前に3人で顔合わせをしておこうと、柏木さんにも下まで来てもらった。改めて柏木さんに鈴本君を紹介し、リアルでは初めましての挨拶をしてから入館手続きに向かった。

会議室で座って待ち、入ってお客さんが来るのに気づくと鈴本君はすぐに立ちあがり、お客さんに名刺をもって近づいていく。俺が3人のお客さんに「新たに担当させていただくことになった鈴本です」と紹介をすると、鈴本君は「始めまして。ネクステージソフトワークスの鈴本です」と、礼儀正しく挨拶をして、中村担当課長をはじめ3人のお客さんと名刺交換をした。

安定感のある行動を後ろで見守る俺に、主任の志木さんは「秋山君もえらくなったね」なんて冗談をいうくらい和やかな雰囲気で始まった。

中村担当課長の動向には冷や冷やしていたけれど、今日は水を差されることもなかった。会議は初めての参加にも関わらず、この1か月の状況報告の書類を読み上げる鈴本君を温かい目で見守る時間になった。

鈴本君は、ときどき3人のお客さんの顔をしっかりと見ながら話していて、隣にいる俺は安心して座っていられた。お客さんの暖かい雰囲気からも、鈴本君が真摯に仕事に向き合っていることが伝わっていたんじゃないかと思う。

いつものようにエレベーターまでお客さんが見送ってくれ、ドアが閉まると、柏木さんは「鈴本君、中村さんに気に入ってもらえたみたいですね」と一言言った。やっぱりそうだよな、と思っていると「秋山さん、安心しましたね」と言葉が続いた。「そりゃあ、初回からいきなりあれを見せられたら、鈴本君からこのプロジェクトから降りますとか言われちゃうからね」と答えたところで、4階でエレベーターは止まり、ほかの人が乗ってきたので俺たちは会話を控えた。

会社に戻る電車の社内で、鈴本君から「柏木さんが言ってましたけど、いつもはあんな感じじゃないんですか?」と聞かれた。事前に、中村さんが暴走すると大変だという話はしておいたので、「最近は半々くらいかな?」というと、「じゃあ、次回は心して行かないとですね」と答えが返ってきた。でも、理由は分からないけれど、鈴本君ならうまくやるんじゃないかという気がした。

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