私の母は異常?part3 父子家庭 無理心中

こんにちは。
帰国子女のこじらせ女子のmintOle(ミントオレ)です
平均より豊な生活を送っていたが、どんどん落胆人生を送っていく
様子を楽しく面白くお伝えするブログです

このブログを書いてる理由は、私の過去の日記を見て
今そのキーワードで苦しんでる人を共感して応援してあげたいから。

1.父子家庭の生活 中学3年の受験

中学3年生から、家政婦だった私は、受験ってなにそれ?おいしいの?
状態だった。父は海外勤務で、家には子供達しかおらず、完全に野放し状態の家庭であった。なので受験の背中を押してくれる人はいなかった。

ただ、同級生達が真剣に受験について考えてる姿を見て、焦りを感じた
偏差値の意味もよくわかっていなかった。

とりあえず、高校の一覧が載ってる本を読んでみた。

昔から絵を描くのが好きだったので、美術科のある高校に進学することき
決めた。

友達は、結構、親が介入していて、これが普通なのか
過保護なのか今でもわからない…
(誰か教えて)

決めてからは、とりあえず、前期の面接と実技試験で受かればいいや

と思っていたため、全然勉強していなかった。
実技(デッサン)には自信があった。


中学校では3年連続、美術の時間で描いた作品が学校代表で出展される実力があったので、負けるはずがないと思っていた。

父が高いお金を払って通わせてくれた塾もほとんどいかなかった
むしろ学校もサボりがちな生徒だった

しかし、あれだけ自信があった前期の試験は落ちてしまった。

受験の倍率3.8倍で結構難関だったのもあるが
その前に過度な自信が仇となったのだろう…笑

残された受験は、後期の実力テストのみになってしまった。

私は終わったと思った。本当に学力は自信がなかったからだ。

偏差値を下げた高校へ変えることもできたが、何としても
その高校の美術科コースへ進学したかった私は、残り期間も少ない中で
猛勉強した。

その結果、後期のテストで見事合格することができた


倍率3.8倍だったのに、何故私が受かることができたのか

未だに謎である



2.受験に受かった父と母の反応


父は結構、無口であまり感情を表すタイプではなかったが、
親戚が集まり皆で受験合格祝いしてくれた
父の親戚が集まる時は、必ず和食屋を貸し切りにして
偉く豪華な食事が出てきた
そして最後は、一人ずつ、うな重をお土産に持たせるというスタイル
だった。しかし、私はうなぎがあまり好きじゃなかった

母は、毎晩のように儀式に来ていたので、その時にベランダ越しで
伝えてみた。
そしたら「私の傍にいたらそんな変な学校に受験させなかったのに」
と言われた。
「なら、あなたの傍にいなくてよかったわ。私はこの高校に入りたかったから」って返した

ここで言いたいことは

①お金があっても、無知な子供は無知のまま

②家庭環境が悪くても、周りの友達がよければ、子供は
きちんといた道へ自ら進むようになる


3.親がいない家は、友達のたまり場になる

よく友達が遊びにきていた。
兄は土足だったけど、友達が遊びに来る日は、とことん掃除をしてた

クラスは違うけど、仲良くなった友達がいた
その子もよく遊びにきていたが、親が厳しく、泊りなんてご法度だった
だが、その子の親が私を信頼してくれていて、私の家だけお泊りが
許されるようになった。

最初はそれでよかったけど、次第にその日泊まる予定だった友達が
夜、私の家から出かけてしまい、朝に帰ってくるということが起こった

なんと、その子は彼氏の家に遊びにいっていたという

まぁ良くも悪くも、人に使われる家になってしまっていた

ここで言いたいことは

①親は家にいた方がいい。子供だけの留守は長時間は控えよう(真面目)

4.物がよく盗まれる 友達に奢る私



親のいない私は、悪い同級生に目を付けられる
毎月、5万貰っていたから、財布はまぁまぁな金額が入っていた
可愛い文房具、ペンなど結構な数や種類を持っていた。
しかし、よく無くなっていた(盗まれていた)

学校の帰りはよく、ジュースやお菓子をよく買っていた
ガチャガチャで一度に5000円使うなど、羽振りのいい私は
友達にも良くお菓子を奢っていた

一度、財布を忘れたら、その子は二度と私と喋らなくなった(笑)

ここで言いたいことは

①子供に大金を持たせるのはやめよう(当たり前)
②何でも買い与えるのはよくない
(当たり前)


5.いい友達とだけ付き合ってみた

昔から結構、人を信用しちゃうタイプだった私は、
変な友人は結構いた。たくさん傷ついたこともあった。
途中から、自分を傷つけない友達とだけ付き合ってみた

そしたら劇的に、人生が変わった

奢らなくていいし、奢らないと怒られなくてもいいし、
物を盗む人もいないし、私の家族を馬鹿にされないし
体系を馬鹿にするやつもいないし、

付き合う友達を変えたら、本当に毎日楽しかった

夜は相変わらず嫌いだったけど

学生の頃の、友達の切り方は「はっきり言う事」

「もう奢るの止めるから」
「家はお兄ちゃんが怒るからもう無理だから新しい遊びをしよう」

これが目当てで来てたから、すぐいなくなった

あと、良く盗まれる文房具には小さな印をマジックペンで書いた
そしたら、一発で盗んだ奴がわかった。

「それ私のだよね?私、印が書いてあるよ」って言ったら、
その子は、その場でその印の上から、自分の名前を付け足した

見苦しかった

6.また母の自殺未遂 そして無理心中

ドンドンドンドンドンドン

「開けなさい!!!!mint!!!!!!!!あなたは、〇〇(妹)も私から奪って
笑ってるんでしょ!!!!!!!悔しい悔しい!!mintはあいつ(父)のスパイだ!!!!!!開けなさい!!!!!!」


やばい、鍵かけ忘れた…って思ったのは遅く、母は家に入って来てしまった。
この時は、忘れもしない高校2年生の夏、友達と夏祭りに行って帰ってきた夜だった。


離婚して母が毎晩のように来るようになって、4年間。
母の儀式はエスカレートしていた。

この日は、母と口論になった。

母は、父のいない生活で一人、子供3人を何不自由な育ててきて
離婚し、mintは父親に取られ、そして妹までもが、取られ
今では一人ぼっちになってしまい、その後の子供達の冷たさに
怒り狂っていた

私から言わせれば、離婚したのも、父か母か好きな方を選ぶように言ったのも両親の選択であって、私は好きな方を選んだだけだった

何をそんなに怒っているのだろうか…

母は、また家から出てくれなかった
私はまた家にあげた事を父に怒られる…と思っていた

そしたら、母は突然、包丁を持ち出して、自分の首にあてた

「死んでやる」


私は、それを見て「死ぬなら、ここから出て死んで」と言った

そしたら、包丁の矛先は私に向けられた

「mint一緒に死のう?一緒に死んでくれない?」


母の目は悲しそうだった


私は「死ぬなら一人で死んで」と言った

母は死ぬ勇気ないってことはわかってた


私は、なかなか帰ってくれない母が嫌で
遂に警察を呼んでしまった

警察が来ると、母は騒ぎ暴れ始めた。


その時言われた警察の一言が印象的だった


警察官「君のお母さん、おかしくない?」


え?わたしのお母さんって、おかしいの?


これが警察官に言われた時、思ったことだった

7.覚えてない普通のお母さんの姿


母は警察官に暴言を吐いた 警察官は暴れる母を抑えていた
私は、その場にいるのが怖くなり、家の外で一人いた
聞こえてくる 母の叫び声
「私に触るなー!!!!!!!!!!!」

しばらくすると、警察官が一人私の元に来た
「今ね。お母さんは、手首を切ったので、このまま保護という形で署に連れてくからね」

そういうと、警察官は応援を呼んだ

母はビニール製の保護シートでぐるぐる巻きにされて
警察官4-5人に担がれて、出てきた

ミノムシみたいにウネウネしてた
声は「ギャー」って言ってた
ミノムシみたいにウネウネしてた
声は「ギャー」って言ってた

あれが私の母親か…私はその光景はひどくショックを受けた

ショックすぎて、その場から逃げた
暗い暗いところに逃げた

その時自分が何をしていたか覚えてないけど
たぶん心は死んでいた

夜が明けて辺りが少し明るくなったころ、家に戻った
母も警察官の姿もなくなっていた

次回は、第3の地獄 病院へ強制送還された母 薬漬けにされる





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