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【小説】またいつかその日には

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連作短編集。喋るのが苦手な少年や、音楽の才能はあるのにプロにはならないと決めた先生や、ことば以外の方法で表現するのが得意な少女、そんなひとびとのゆるやかな繋がりの話です。
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2020年7月の記事一覧

【小説】6 蝉時雨とハーモニカ

 夏休みだからといって都内に遊びに行きたがる奴らに付き合って来てみたはいいが、たいして見るべきところがあるわけでもないし、その上今日に限ってとにかく暑くて、果ては頭がガンガンしてくるので、僕は途中で離脱して適当に住宅地をぶらぶら歩いていた。
 よく知らない高そうな店が並ぶ大通りだとか、やたらと人の多い繫華街みたいなところよりも、僕はどこにでもありそうな街中のほうがしっくりくる。何時間でも歩いていら

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【小説】5 その日までお元気で

 拝啓。
 ようやく梅雨が明けて、あなたは夏の到来をさぞかし喜んでいることだろうと思っています。強い日差しが景色にくっきりと陰影をつけるこの季節には、植物の生命力がその色や形により強くあらわれてくるということに、ぼくは最近気づきました。
 どうしてまた突然こんな手紙を書くのかと、あなたは不思議に思うでしょうか。
 理由はとても単純で、きのう帰り道で自転車を走らせていたらにわか雨に降られて、その時、

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【小説】4 植物観察のしかた

 天気雨の中で、傘も差さずに佇んでいる。
 むせ返るような緑の匂いと、濡れた路面の匂いが混じる。夏の匂いだ。雲の隙間からやわらかい橙色の光が差し込んで、空中で水滴に反射してきらめく。とめどなく降る雨は強く地面を叩く。ばらばらと音が響く。私は西の空を見上げる。顔に雨粒が当たるが不思議と痛くはない。上空をすごい速さで雲が流れていくのが見える。体ごと振り返って東の空を見る。不気味なほど黒い雲を背にして、

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【小説】3 セーフティ・ピアノ

 あんたって子はほんとうに、長続きしないねえ。
 夫と別れることにしたと告げたら、電話口から風圧を感じるぐらいの母の溜息が聞こえてきた。
 ほんとにどうしてあんたはそうなんだろうねえ、と、母は私がかつて少し齧ってはすぐにやめてしまった数々の習い事や、昔は仲のよかった友人たちの名前、学生時代に付き合っていた男の子の名前、などなどを並べたてる。よくもまあそんなに覚えているもんだ。たぶん母のほうが私より

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