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かつての自分と向き合ってみる

断捨離をしていると昔懐かしの作文なんかが出てきて、ついつい読みふけってしまうことがある。

先日、「そんな誘惑には惑わされまい」と心に決めて断捨離を開始してみたが甘かった。押入れを整理していたら面白いものを見つけてしまった。

それは大学時代に創作演習の授業で書いた小説。

書いたことさえ記憶から消えていたその小説のタイトルは「月光」。
400字詰め原稿用紙換算で63枚の短編恋愛小説だ。

短編とはいえ、我ながらよく書いたなと感心する。
その一方で、当時のことを思い出して懐かしいような、それでいてこのまま忘れていたかったような、なんとも複雑な気持ちになった。

ところで、その小説は2人の先生に添削(評価)されていた。
一人目の先生から返却されたレポートには、赤などは入っておらず、表紙の題名の横に「A」とだけ記載されていた。

二人目の先生から返却されたレポートには、細かく赤が入っており、表紙には厳しい批評が書いてあった。表紙のコメントを要約するとこんな感じ。

理屈ですべてを解釈してしまうので、読者が作品の世界に入り込めない
「私(主人公)」による解釈が強すぎると、長い言い訳を聞いているようで読者は楽しめない

私の小説が未熟なことはもちろんだが、先生のお気に召さなかったことが伺える。

せっかくなので、この赤の入ったバージョンを読み返した。
そして、文中の赤入れコメントが辛辣すぎて思わず苦笑してしまった。

「無意味な接続詞」
「理屈っぽい「私(主人公)」がバカに見える」
「英語の例文みたいで感性がない」
「ここが小説の山場になるはず。ここをちゃんと書かないと小説にならない」
「こういうふうに先に説明してはいけない」
「こういう説明は最悪」
「解釈や説明を排除してプロットや描写で表現してほしい」

ひどい言われようだ。
中には礼儀正しい指摘もあるけれど、数々のドギツイお言葉を頂戴している。
このコメントを読んで思い出したのだが、確かこの評価を受け取った後、ひどく落ち込んでしばらくは書くのをやめていた。

ともあれ、この小説の採点と評価をしてくださった二人の先生はプロの作家だった。授業とはいえ、学生たちの駄文を読むのは苦痛だったと思う。
でも二人目の先生は頑張って、いや教鞭をとる者の義務として評価をしたり赤を入れてくれたんだと想像する。

しかし二人目の先生の評価を踏まえると、「A」をくれた方の先生は「もしかして作品を読んでいなかったんじゃないか?」と疑いたくなる。が、確か授業中に口頭で批評してくれたような記憶があるので、本当に「A」だったのかもしれない。

ちなみに作品の内容はこんな感じ。
主人公である「私」とその恋人となる男は、どちらもちょっとした傷や満たされない思いを抱えている。そんな二人が出会い、恋をし、一時は幸せな時間を共有するが、次第に歯車が狂っていくというお話。相手に真の自分をさらけ出すことができない、不器用で孤独な二人の少し悲しいエピソードを書いた。

この小説には、これを書いた頃の自分の考え方が色濃く反映されていて、想いのほかその頃の自分に想いを馳せる機会となった。

そして、読み終えてみると「先生の赤コメントは確かに的を得ている」と納得。
ただ、赤が入っていないページは(実際のところ赤が入っているところは上記の箇所だけでそれほど数が多いわけではない)、自分で言うのもなんだが、よく書けているように思えた。ところどころ直したくなる稚拙な表現はあるが、構成だって悪くない。

当時よりは思い入れなく客観的に作品を読めていると思うので、そういう意味でもこの感触は間違っていない気がする。まあ、あくまで自分基準でだけど。

また読み返してみて最も如実に感じたことは、私の中にある根源的なものは何一つ変わっていないということ。
かつて抱えていた課題は未だに私の中に静かに息づいているし、解決するどころか年を経るごとにそこが強調されている気さえする。

人はそう簡単には変わらないということか。


今、この小説に再会するのも何かのきっかけかもしれない。

リライトしてみようかな。
人としての根本は変わらなくても、考え方や感覚、表現も少しは成長しているかもしれないし。赤コメントのない小説が出来上がるかも。

結局、目的であった断捨離は頓挫するのであった。

写真:店じまい

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(day18)

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