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建築批評:OM TERRACE(実体のない公共建築 / 実体過剰な民間建築)

先日RFA(藤村龍至氏)設計のOM TERRACEに伺った。

短い時間ながら、とても刺激的な体験をさせていただいた。
後でRFAウェブサイトを拝見すると、「連続体」「1.5次部材」がこの建築のテーマだったようで、
なるほどなるほど・・・僕の感想にある「(不可視の)トラフィック」「アドホック」はそこから来ているのかと、論理的な合点もいった。

そんなことを考えていると、中村義人氏がこんな問いが投げかけられた。

「市民に曝される」とは、汚れや傷といったものが市民の利用によってついてしまうことを意味し、
「パブリックスペースや公共建築は汚れや傷に曝されざるを得ないけど、西倉の公共性論からすると、そういった避けようのない汚れや傷にどうケジメがつけられるのさ?」という問いかけだ。

オルタナティブ・パブリックネス(APness)論として公共性を考えている僕だが、「汚れや傷」を公共性と結び付けて考えたことがなかったので、
上記のツイートにはこれがなかなか・・・虚を突かれた。
しかしよくよく考えてみると、公共施設的建築(以下「公共建築」)と民間施設的建築(以下「民間建築」)の違いを整理するのに良いキッカケを与えてくれると感じたので、手短にテキストにしてみる。

結論から言うとタイトルの通り、「実体のない公共建築」と「実体過剰の民間建築」だ。



1. 実体のない公共建築

OM TERRACEの体験をもとに考えてみる。

建築物に伺う際はいつも「どういう建築か?」という予想をたててから向かうのだが、
OM TERRACEの場合は
「パブリックスペースにおけるトラフィックの可視化」
と想定していた。
より詳しく述べると・・・

公衆トイレ、駐輪場、掲示板、休憩場(テラス)、wi-fiなど、パブリックスペースに存在する需要と、それに伴う人流=トラフィックを一つの場所にまとめあげ、建築物として一つの象徴的な実体が立ち上がっている。そして、2Fのテラスから駅ロータリーを見渡せば、まさに自分がまきこまれていた人と車のトラフィックを見ることができる。建築化による「トラフィックの可視化」と、テラスから見渡すことによる「トラフィックの可視化」という二重性が、藤村さんらしいウィットとしてこの建築に埋め込まれている。
(のではないだろうか?!)

・・・といった具合だ。

しかし実際行ってみると、ちょっと予想が外れた気がする。
確かに、パブリックスペースに潜在する複数のトラフィックをまとめあげた建築ではあるのだが、一向に建築としての実体がつかめない。ここでいう「実体」とは、簡単に言うと「1つの個性をもったまとまり、もしくは自己同一性」のことで、通常、デザインの上手い下手に関わらず何かしらの実体が見えてきてしまうものだ。
しかし、OM TERRACEは遠近どのスケールで見ても焦点が絞れず、まるで「1つにまとまること」を避けているようで、
作為がないという作為、白でも黒でもない(グレー?)、という印象を受けた。
その後、「もしここにOM TERRACEではない建築物があったら?」という仮想における比較をしてみたり、後述の「汚れや傷」の存在により、ようやく
「この建築は意図的に実体が排除され、パブリックスペースにおける不可視なトラフィックが不可視のまま、言い換えれば新鮮なまま、取り扱われている」
という理解に至った。

そして、サイン計画などで誘導される複数の、全く異なる動線=需要=トラフィックが、無駄な象徴性やオブジェクトをまとわないまま、そのままOM TERRACEに吸い込まれ、そのまま吐き出されていく様相は、
自分の中の公共施設のイメージ、つまり、過剰に民主主義的プロセスを求められ恣意性が排除される傾向と合致した。
国が市民の感情を率先して動員する必要があった戦後直後の公共施設や、自治体が頑張らないと全く人がやってこない地域の公共施設でもない限り、人の意識と身体を引っ張り誘導する明確な実体をパブリックスペースに設けるインセンティブはなく、むしろ、成熟したトラフィック群に水を差す結果になりかねない。
OM TERRACEはそういったコンテクストを明確に意識し設計された政治的な建築、「都市におけるThe 公共建築」だと感じた。


2. 実体過剰の民間建築

一方、民間資本による建築、とくに商業建築は、実体を過剰にまとうことに意義を見いだす。
お店か何かの商業建築を想像してみよう。単純な話、一つの建築物でより多くの、より多種の需要とそれに伴うトラフィックを内包できれば、結果的に多くのお金をまわすことができ(トラフィックが多いほど売れる)、かつ事業としてのツブシを効かせることにもなる(一つのトラフィックが低調でも他で補える)ので、それらのトラフィックを誘発・動員させるような明確な実体が、最低1つ、できれば、破綻しない範囲で無数に存在した方がいい。

例えば、以前商店建築の連載で扱わせていただいた「フルーツピークス青木 福島西店(設計:sinato)」は、郊外において主に3種のトラフィックを吸い上げることを試みている。

一つの空間に2つの商業(フルーツショップとカフェ)を入れることで相互利用などのシナジーを見込むほか、建物裏手が住宅地であることを意識し、敷地内に通り抜けができる通路をいくつか設けている。単に1つの商業=トラフィックで建築物を専有するより、複数種のトラフィック、時には直接的には売上に結び付かない(けど、中長期的には効果を発揮する)通り抜け体験というトラフィックも建築のデザインとして実体化することで、事業的な持続可能性を見込むことができる。

商業空間の公共性_連載10回目_図版_文字入り

図:フルーツピークス青木 福島西店平面パース
(商店建築2021年2月号掲載)

当たり前だが民間資本による建築に税金は使われないので、民間建築は自分で価値を創設し、トラフィックとして循環させる必要がある。結果、トラフィックを誘発・引用できる実体が過剰に盛り込まれ、事業継続の中でその建築的実体の維持管理が継続される。
(経営的に意義がないと判断されたとき、実体の維持管理は断念され、取り壊されたり、売られたり、模様替えをしたりする)

※余談だが、OM TERRACEを拝見したとき、つかみどころのなさが高輪ゲートウェイと似ていると感じた。しかし、高輪ゲートウェイは建築的実体がないわけではなく、むしろ過剰に実体(開放的なコンコース、日本の駅舎的な無骨な鉄骨、上空から見る屋根のジオメトリなどなど・・・)を抱えた、これまた政治的な建築でもある。視点とトラフィックを複数、政治的にまとめると、実体の有無に関わらず、つかみどころがなくなる(建築業界的には、評価しにくい・超ハイコンテクストになる)のかもしれない。


3. 汚れや傷が浮かび上がらせる謎の実在性

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