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卒業設計の社会依存症候群

「卒制」とは建築学科の卒業設計(もしくは卒業制作)のことだが、
「せんだいデザインリーグ2024卒業設計日本一決定戦(通称SDL2024)」のエスキス塾というイベントで、卒制の講評を担当した。

全国から数百にものぼる卒制が集まりせんだいメディアテークを模型で埋め尽くすSDLはまさに「卒制の全国大会」といった様相だ。
自分もかつて、2012年開催のSDL2012で特別賞をいただいたが、
卒制をエスキス・クリティークするのは約10年ぶりのことで、
やはり時が経つと良くも悪くも傾向は変わるものだ。
(それと、実務を始めてから見るせんだいメディアテークは凄まじかった)

01. 全体性の不在

SDL2024の会場を回っていて1番感じたのが、設計された建築の全体像が曖昧なものが多いことだ。
部分や要素を組み合わせたり、プロセスから自然発生するかのように作ったり、複雑な社会のコンテクストに依存しながらデザインされたり・・・と、
明確に一つの形や空間を表現する卒制が多かった自分たちの頃に比べると、
どの卒制も外観が複雑で、ぱっと見では意図や全体性を掴みにくい卒制が並んでいる印象を受けた。
大きな物語の喪失が語られて久しいが、10年もの間に少しずつ、全体性の重要度が下がったのかもしれない。

しかし、世界はかつてない国際社会や民主主義の危機に面しており、
もはや大きな物語を喪失した島宇宙の世界ではない。
「全体性が不在の建築には大きな物語に対抗する力がない」
・・・と断言するつもりはないが、
少なくとも今回拝見した多くは複雑性の中に個人の意思を隠してしまっていて、
現実のハードさに対して少しナイーブすぎると、個人的には感じた。

※追記2024.04.10
全体性の不在について、全体性がない建築もあるのでは?という反論もあるかもですが、
(全体に対する)部分を設定することで逆説的に全体性が存在することを示唆すると思います。
つまり、ここでいう「全体性の不在」というのは、全体性自体がないのではなくて、全体性の放棄というか、
部分を考えることで、目の前にある全体性を考えなくてもいいと勝手に無視するスタンスになります。

部分と全体の二項対立があからさまに出てしまうのは思考と検討の深さが足りないのかなと思いますが、
全体性が部分達の中に相対化されていくような設計があってもいいのにな、とは思いました。

02. 工場みたいな卒制

他方、何かしらの全体性を示す案は工場や廃墟をモチーフにしていたりと、インダストリアルでレトロスペクティブな表現が多く、
近現代の建築物が歴史や風景として学生に馴染んでいる印象を受けた。

スキーマをはじめとする下地を表しで表現する建築にも通じる話だが、
機能的で均質と言われた工業化製品も、ボキャブラリーの量が人間の認識を超え、飽和状態になれば、
いやらしさが消えることがある。
規格品によってデザインが規定されてしまう「行為の自由」の不足よりも、
多くの選択肢(ボキャブラリー)の中から選ぶ「選択の自由」の充実が上回るからだ。
そのとき、工場的風景は所与の自然の風景と同じであるかのうように錯覚するし、
今の学生は僕たちの世代よりもより、その感覚にシンパシーを覚えているようにも見えた。

また「工場的」は、上記の「部分や要素から組み立てる設計」と相性がいい。
そもそも工場自体が要素還元的であり、工業化された部分からつくられているからだ。
なので、「要素還元的に部分から組み立てたら結果的に工場みたいな表現に落ち着いた」だけの「逃げの工場選択」なのかもしれないが、
もしかしたら僕が理解しきれていないだけで、工場・廃墟的卒制の中にも実は重要な差異があり、
その先の議論があったりするのかもしれない。

03. 複雑な社会を、勝手に設定してしまうことの問題

全体性の話以上に気になったのは、
設計の前提となる社会設定が複雑すぎる卒制が目立ったことだ。

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