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生きづらさは「センサーの不具合」です

大なり小なりのトラウマを経験することの何が問題かといえば、「安全と脅威を見分けるセンサーが不具合を起こす」ということです。


屋根のある家に住み、舗装された道路を歩き、自動車や電車で移動し、食べ物はスーパーやコンビニで買い、ときにはレストランで調理された食事を食べ、水は蛇口をひねれば出る、夜になれば電気がつき、寒ければ暖房、暑ければクーラーを入れ、あたたかいお布団やベッドで眠る

という、
現代的でテクノロジーに囲まれた生活をしている私たちは、「安全と脅威を見分けるセンサー」の大切さをついうっかり忘れてしまいがちです。

そもそもそんなセンサーが自分に備わっていることすら、ふだんは意識しないで過ごしている人が多いかもしれません。そういうのは動物のもの、動物的な、野性的なことと思っている人もいるかもしれません。

でもこのセンサー、ものすごく重要なものなのです。



生まれてから死ぬまで、
朝起きてから夜眠るまで、
そして眠っているあいださえも

センサーはONの状態で、「自分が今いるところは安全かどうか」を判別しようとしています。

たとえば、まだ言葉を理解しない赤ちゃんは、お腹がすけば泣き、おむつが濡れば泣き、眠くなれば泣いてぐずります。暑くても寒くても泣きます。

泣いたりぐずったりすることで「誰かなんとかして!」と訴えているわけですが、

そもそも泣く前に、赤ちゃん自身のセンサーが「今アタシ安全じゃない」と検知しているわけです。

人間の赤ちゃんというのはとても無力な存在なので、お腹がすいたままでいればそのうち餓死してしまいます。つまり赤ちゃんにとってその状態は、「脅威レベルMAX」ということです。

おむつが濡れたままにされているということは、「養育者から放って置かれている」ということ。敵が近づいても誰も守ってくれない、このまま水も食事も与えられないかもしれません。この状態も「脅威レベルMAX」です。

赤ちゃんは、自分のからだに備わったセンサーによって「今この場この状況は安全かどうか」を検知しようとしています。

そうしてセンサーが脅威を検知すると、赤ちゃんが唯一もっている「泣く」という手段を使って、周囲にその脅威を知らせます。赤ちゃんにとってこれは、大げさでなく、生存がかかったシステムといえます。


これはいわば、防災情報の警戒レベル設定のようなものです。

防災情報においては、雨雲レーダーや河川の水位測定システムによって警戒レベルが決まり、アラートが発令されます。

このときの「レーダー」や「測定システム」がセンサーです。正確なセンサーが作動しているからこそ、正確な警戒レベルを設定することができ、それがあるからこそ、適切で落ち着いた対応、安全な避難ができるわけです。

防災における雨雲レーダーや水位測定システムのようなセンサーが、私たちのからだにも備わっていて、このセンサーによって、私たちは瞬間瞬間を生き延びていると言っても過言ではありません。

にもかかわらず、
私たちはついつい、自分に備わったセンサーの存在を忘れたり軽視したりしがちです。その一方で、行動することを重視しがちでもあります。

たとえば
イライラしやすい人や怒りっぽい人がいると、それをコントロールすることを求められます。激しい感情に巻き込まれないよう、理性や意志でもって抑えたり、アンガーマネジメントなどのスキルを身につけて怒りを管理することが大事だと考えられています。

でも、怒りという感情がわく前には必ず「センサー」が何かを検知しているのです。

その人がもつセンサーが、
「ここは安全じゃない!」
「自分は脅かされている!」
「敵が近づいている!」
「生き延びられないかもしれない!」
という脅威のサインを検知したからこそ、

その脅威に対抗するために、
交感神経のスイッチがONになり、心臓ポンプがバクバク大きく拍動し、からだじゅうを熱い血が駆け巡って筋肉が収縮の準備をはじめ、冷静な思考はストップする………戦闘態勢、つまり「怒り」の状態に入ったわけです。

怒っている人は、怒りの感情によって怒っているのではありません。

怒っている人は、センサーによって怒りの状態に入っているのです。


そう考えると、からだが「怒りの状態」に入っていることは、まったくもって正常なことです。

「脅威を察知したら即座にそれに備える」というシステムは、そもそも私たちのからだに標準でインストールされたアプリのようなものだからです。

センサーが脅威を検知したら、アプリから通知がきて、それに備える。

からだは実にいい仕事をしているだけなのです。



ただし、センサーが壊れていたらどうでしょう。

センサーに何らかの不具合があり、実際には全然脅威でもなんでもないときに、「目の前に脅威があります」という通知がくるとしたら。

センサーの誤検知で、安全であるはずの人や場を「脅威レベルMAX」と判断してしまったら。

もちろん困ったことになります。

周りの人からすれば怒るような場面ではないのに、その人のセンサーだけが「脅威!」「敵!」「安全じゃない!」と検知して戦闘態勢に入ってしまったとしたら、

「なにこの人おかしい…」と周りの人には思われてしまうでしょうし、自分としても「どうして誰もわかってくれないんだ」と思い、孤立を深めてしまいます。

重要なのは、怒ることが悪いのでも間違っているのでもなく、その人の人格に問題があるのでもなく、意志や理性の力が弱いのでもなく

「安全と脅威を見分けるセンサー」にちょっと不具合が起きている

ということです。



これは、怒り以外の感情にも当てはまります。感情だけでなくあらゆる感覚もそうです。

突き詰めて言えば、私たち人間が感情や感覚というものを持っているのは、「安全か脅威かを見分けるため」です。

快か不快か。
心地よいかそうでないか。
熱いか冷たいか。
柔らかいか固いか。
痛いか痛くないか。
好ましいか好ましくないか。
うるさいかそうでないか。
安心できるかできないか。
強すぎるか弱すぎるか。
足りているか足りていないか。
信頼できるか疑わしいか。

あらゆる感覚は「安全か脅威か」を自分で見極めるためにあり、あらゆる感情は「自分が今、安全かどうか」を内なる声として自分自身に知らせるものです。

美味しいまずいもそうです。

美味しい料理なら、食べても安全ということ。でもまずいと感じた料理は「腐っていたりカビが生えていたりするかも」というアラームかもしれません。

私たちは、感覚という実に繊細なセンサーをからだじゅうに張り巡らせて、この世界を生き延びようとしているんですね。

素晴らしいことです。


でもだからこそ、センサーの感度が重要になってくるのです。

腐ったものを食べているのに、臭いにも味にも気が付かないとしたら、食中毒になって死んでしまうかもしれません。

ものすごく熱いことに気づかずに手で触れば、やけどして皮膚がただれてしまいます。

信頼してはいけない相手を信頼してしまったら、詐欺のカモになったりDVの被害に遭ったり、傷つけられてしまうかもしれません。

人の声や生活音などが、我慢ならないほどのノイズとして聞こえてしまったら、学校や職場にいられなくなるでしょう。

「安全と脅威を見分けるセンサー」の感度は何よりも重要で、感度が良すぎても悪くても、社会生活を送る上でのさまざまな問題を引き起こしてしまうのです。



「生きづらさ」にはいろいろな理由があるでしょう。

敏感すぎる人(HSP)、発達障がいの人、自閉症スペクトラムの人。

怒りっぽい、妬みっぽい、悲観的、暗いなど、性格的なことで周囲とコミュニケーションがうまくとれない人。

仕事が長続きしない人。能力がちゃんと発揮できない人。職場で孤立している人。

周りから心配されるような相手ばかりを好きになってしまう人。恋愛や結婚がうまくいかない人。

家族との関係で悩んでいる人。

こうした生きづらさを抱えている人には、「安全と脅威を見分けるセンサー」に不具合が起きていることが少なくありません。

何らかのトラウマによって傷ついている人もそうです。トラウマ的なできごとを経験したときの衝撃で、センサーが壊れてしまっているのです。



「生きづらさ」を外から見ると、その人の行動に問題があるように思われますが、違います。

問題のある行動をなんとかすれば、生きづらさが解決するように思われますが、違います。

「生きづらさ」はセンサーの不具合から起きています。

だから、センサーの感度を調整すればいいのです。

ちょっとの不具合ならば、ちょっとの調整で済むかもしれません。

不具合が多すぎたり、感度がハチャメチャになりすぎていたなら、初期設定に戻ってやり直す必要があるかもしれません。


「トラウマをケアして自律神経にアプローチする」とはつまり、表にあらわれている行動ではなく、からだの内側に張り巡らされたセンサーの調整をするということ。

センサーの不具合は、本人のせいではありません。多くの場合、大なり小なりのトラウマによってセンサーの感度に狂いが出てしまっているのです。

感じないことを目指すのではなく、感情的にならないことが良いのではなく、感情を管理できるのが賢いのではなく、

センサーが正常に、健全に機能している状態であることが大切です。



センサーが健全に調整されれば、健やかに生きることが可能になります。

この世界のどこが安全で、誰が信頼できて、何を避けなければならないかがちゃんとわかるようになります。

つまりそれは「人生を楽しんで生きる」ということに他ならないのです。