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北斎作品の旺盛なサービス精神〜『北斎百鬼見参』鑑賞レポート〜

はじめに

こんにちは、みのくまです。
今日(8/19)もまた暑いですねぇ〜。。。

これだけ暑いと、なんかすべてが嫌になっちゃうというか、そんな気分になりますよね。
特に誰からも強制されていない孤独な作業をしているときなんて、一番やる気が出なくなる天候のような気がします。

そう、まさにこのnoteの作成こそ、ぜんぜんやる気の出ない作業!(笑)
いや、ダメだ、ぜんっぜんダメだ!
気合い入れていくぞ〜〜〜〜〜〜〜!!

両国の「すみだ北斎美術館」に行ってきた。

先日、六本木の森アーツセンターで開催されていた「アリス-へんてこりん、へんてこりんな世界-」展に行ってまいりました。
(※その様子は前回の記事をご参照のほど)

その日のぼくは精力的で、アリス展を観終わった段階でまだ午後1時を過ぎたくらいだったんですね。
それでとりあえず六本木駅から大江戸線に飛び乗ってどこかに行こうと思ったんです。

大江戸線に揺られていますと、停車駅に両国駅があるじゃないですか。
両国といえば江戸東京博物館ですよね。
(※去年の11月に行ってきました→その記事はこちら。)

とはいっても江戸東京博物館は、現在大幅リニューアルのため閉館中。
しかーし!実は前々から行ってみたい美術館が両国にはあったのでした。

それが、すみだ北斎美術館です!!

これがすみだ北斎美術館!!すごい!!なんかすごい!!

両国駅から徒歩5分程度なんですが、暑くてぜえぜえ言いながらクーラーを求めて中に入ります。
そうしましたら、現在「北斎百鬼見参」という企画展をやっているとのこと。

外観もすごいですが内部もかなり綺麗です。天井が高くパネルも大きい。

迷わず企画展+常設展セットのチケットを購入。
ちなみに今月誕生日の人は割引になるらしく、ぼくはちゃっかり免許証を提出して割引してもらいました。8月生まれでよかった。

まあ、とはいえあまり期待していませんでした。
だって「鬼」がテーマってなんか、、、流行に乗ってる感じがしますでしょ?(「鬼滅の刃」的な)

いやいや、ところがどっこい。
なかなかインパクトのある展示でしたよ。

いろいろな「鬼」たち。

「北斎百鬼見参」は、鬼才・葛飾北斎が描いたいろいろな「鬼」たちを勢ぞろいさせた企画展です。
展示によると、そもそも「鬼」とは古代中国では死霊のことだったみたいですね。
それが日本に伝わってきて、だんだんと意味が変化していったのだとか。

とはいえ、日本の「鬼」も、「桃太郎」に出てくる「鬼」ばかりではありません。
北斎は本当に多種多様な「鬼」を描いています。

『釈迦御一代記図会』三 八面九足の霊鬼悉達太子を試して四句の偈を授る図
釈迦が修行中に出会った八面九足の鬼。

どうですか、このダイナミックな八面九足(多い!!)の鬼!
この巨大さと下から上にグワワーっと昇ってくるような迫力!
ただ、顔はちょっと愛嬌がありますね。
あと、手足にびっしりと体毛が描かれています。

百物語 笑ひはんにや
二本角の鬼女。右手には子どもの生首。あわわわ。

百物語だけあってホラーな作品。
なかなか凄惨な絵ですが、この鬼もどこかユーモラスですよね。
そこが不気味なのかもしれないですが、ぼくにはなんかちょっと「純粋な表情」に見えるんですがいかがでしょう。。。?

朱描鍾馗図
魔除け、厄除けの鬼・鍾馗。この作品、大好き。

言わずと知れた中国の魔除け、厄除けの鬼・鍾馗。
今回の展示の中で、この作品が一番好きでした。
でっぷりとしたおなかを前に出したポーズも素晴らしいですし、ヒゲと髪の毛の細か〜い描き方も秀逸。
でも一番いいのはこの表情です。
このちょっと微笑みかけている感じ、頼り甲斐があると同時に、ちょっと幼さも感じられて、何かがとてもにじみ出ていると思います。
いやー、本当にすばらしい。好き。

『絵本魁』初篇 藤原広嗣の霊霊 玄暴僧正
僧・玄暴(玄昉)を錫杖で打ちすえる怨霊・藤原広嗣。

これも素晴らしいですよね!!
三つ目の鬼と化した藤原広嗣は、もうぜんぜん人間の面影がなくなっています。
でも、この作品はやっぱり玄暴の顔!
この生臭坊主感すごくないですか。。。!?
ちょっとざまぁみろと思ってしまいますよね(笑)

『北斎漫画』四編より抜粋。
金太郎と縛られている雷神。これもよすぎるでしょ!笑

この作品は正直実際の展示で見たか覚えていないんですね。
でも図録を読んでいたらこの作品に出会って、どうしても紹介したくて載せました(笑)。
金太郎って雷神よりも強いらしいのですが、それを表した絵だそうです。
このちょっと俯いた鬼、最高に可愛くないですか!?
そしてそれをじっと睨んでる金太郎も最高じゃないですか!?

いやー、他にもたくさん「鬼」がおりまして、ここでは紹介しきれないわけですが、とりあえずぼくの好きだった作品を並べてみました。
この記事を書きながら、改めて葛飾北斎はすばらしいなぁとホクホクしておりますよ。

さて、では最後に、葛飾北斎にとって「鬼」を描くってどういうことだろうということを、今回の企画展にからめて考えてみようと思います。

過剰さの表象としての「鬼」

企画展「北斎百鬼見参」において、「鬼」として紹介されていたものは、前章でも紹介した悪魔や山姥、怨霊の類が多かったのですが、鍾馗や良源(角大師。天台宗の僧。鬼の姿で民を救った)といった善玉の鬼や、雷神・風神などの神様もおりました。

そもそも「鬼」というだけで企画展が出来るんですから、葛飾北斎はそれほど多種多様で膨大な数の「鬼」を描いてきたということでしょう。
では、葛飾北斎はなんでこんなに「鬼」を描いたのでしょうか。

もちろん、その背景には北斎の生きた江戸時代の文化や宗教的な影響もあるでしょう。
また、依頼された仕事に「鬼」を必要だった、なんてことが多かったのかもしれません。
ただ、そういった実証的な問題はすべて横に置いて、あくまでぼくが受けた印象をベースに考察してみます。

北斎の「鬼」はどれもユニークで、ぼくにはユーモラスに見えます。
いくら目をひん剥いて、牙を見せつけてきても、どうも愛嬌があるのです。

「鬼」の表情を見るに、子どもの表情に似ている気がしませんか?
ぼくには、北斎の「鬼」には「幼さ」が抜けていないように感じるのです。
そして、その「幼さ」から、「鬼」のピュアさと、無邪気ゆえの残酷さを受け取ることができるように思うのです。

北斎の「鬼」は、子どものようにめいっぱい表情をつくり、ポーズを決めて絵に収まっています。
前章で取り上げた「百物語 笑ひはんにや」や「朱描鍾馗図」をご覧ください。
まるで写真に撮られるときの子どものような「過剰さ」が、そこにはあるのです。

おそらく北斎は「鬼」を描くことで、子どものような「過剰さ」を自身の作品に注入したのではないでしょうか。
その「過剰さ」の結果、北斎作品はとてもユニークで、しかもとてもサービスがいいのです。

おわりに

ぼくは葛飾北斎の作品のことをあまり知りませんし、そこまで興味を持っていたわけでもありませんでした。
ただその生涯には興味があって、ちょこっと調べたりしていた程度です。
そんな状態で、ぼんやりとすみだ北斎美術館というところがあるらしいので、いつか行ってみたいなぁと思っていたのでした。

それが今回、ちょうど時間が取れたので行ってみたわけですが、予想以上に面白い。
もちろん北斎の生涯も興味深いのですが、それよりも作品そのものが面白いのです。
これはぜひ継続的に勉強していきたいところです。

というわけで、今回は葛飾北斎に関して書いてみました。
企画展「北斎百鬼見参」は8月28日までやっているそうなので、もしご興味があれば行ってみてもいいと思いますよ。
確実に損はしませんし。

ぼくは図録まで購入。

それでは、また近いうちに記事書きますので、よろしくお願いします。
ではでは。


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