江戸東京博物館「縄文2021〜東京に生きた縄文人〜」に行ってきた
こんにちは、みのくまです。最近noteの更新が滞っていますが、それはぼくの能力が追いついていないためです。悲しすぎる自己申告ですが。
アウトプットは潤沢なインプットと、そのインプットを正しく伝達できる表現力が必要です。ここでいうインプットは知識だけではなく感受性も含まれます。何をどう受け取ったのかは、自分の脳内にしかありません。それをできればそのまま外に出したいのですが、そのためには豊富な語彙力や表現の仕方が重要です。ぼくにはそれがまだ全然足りないのです。
結論から言えばもっと修行しなければいけないということなのですが、それはともかく今回は江戸東京博物館の特別展「縄文2021〜東京に生きた縄文人〜」に行ってきたので、それについて書いてみたいと思います。
「縄文2021〜東京に生きた縄文人〜」に行ってきた
ぼくは練馬在住なので、意外と両国は行きづらいのですが、ゴトンゴトンと地下鉄から総武線に乗り換えて行ってきましたよ。
(※両国駅に降りたのは5年ぶり?くらい。この駅前のごちゃっとした感じが総武線って感じで懐かしいです。)
(※やはり両国といえば相撲。せっかくなのでちゃんこ鍋とか食べたかったなぁ。)
(※国技館を横目に見つつ江戸東京博物館に向かいます。テーマパーク感がすごいですね。)
(※江戸東京博物館遠影。いやー、カッコいい建物です。)
(※一階の入り口から入ります。ぼくはいつも音声解説を聴きながら鑑賞するのが好きなのですが、今回の特別展にはなかったですね。残念だなぁ。)
(※入るとすぐに多摩ニュータウンのビーナスがいます。今回の特別展は基本的に撮影できるようで、パシャパシャ撮ってきましたよ。)
(※土器がたくさんあります。この写真からも底部がとんがっているものが多いのがわかります。自立を意図していないのか、それとも柔らかい土に刺すように使っていたのか。)
(※土器だけでなく木工も出土されてます。あまり見たことがなかったので興味深かったですね。)
(※未完の土器もありました。未完品から完成品を逆照射すると、どれだけ完成品のクオリティが高いのかわかります。)
(※お目当ての土偶もズラっと陳列されてます。どれも小型ですが、なかなか多種多様で面白い。足だけある土偶も。)
(※貝塚の断面。びっしりと貝が埋まっている様がわかります。しかし貝塚は貝だけでなく土器や動物の骨や、そして人間の埋葬にも使われていたようです。)
もっと写真を撮りましたが、本章ではこれくらいにしておきます。実は一番面白かったものはここには載せませんでした。次章に載せますね。
特別展にいたのは大体1時間くらいでしょうか。このあと常設展にちょっと寄ってからご飯を食べに行きました。
(※なぜかエジプト料理。特別展に合わせて「地層コシャリ」というのが限定メニューにあったので食べてみました。味は、、、。あまりエジプト料理は口に合わないかもしれません。)
縄文の波に乗って
今回の展示は正直あまり集中して鑑賞できませんでした。ちょっと体調が悪かったことも大きく影響しましたし、音声解説がなかったことも大きかった。音声解説に関しては、解説を聴きたいということももちろんありますが、周囲の雑音をシャットアウトしたいということもあるんです。特に今回の特別展は子ども連れが多かったので、できればちょっとシャットアウトしたかった。
そうそう、今回の特別展は子どもが多かったのが驚きでした。これはとてもいいことですね。それほど縄文にはパワーがある。子どもに人気なのは、縄文研究のこれからを考えると明るい未来しかないので嬉しかったです。
閑話休題。今回の特別展の感想を書きたいと思います。ぼくは今回の特別展に行った目的は、国宝「縄文のビーナス」を筆頭に、生の土偶を観たかったからなのです。
(※国宝「縄文のビーナス」。非常に簡略化された顔面のうえに不思議な兜が乗っかっている。胴体には乳首みたいな突起がふたつ。綺麗なぽっこりお腹のてっぺんにはへそのような空気穴。上半身と異なりどっしりした下半身もかっこいい。)
ですが、いい意味で裏切られたのです。もちろん「縄文のビーナス」を生で観ることができて興奮しましたが、もっといいと思ったのが「丸木舟」でした。
(※丸木舟。何千年も経ているのに、これほど保存状態の良いのは素晴らしい。圧倒的に迫力があります。)
土偶は「縄文を感じる」ことはできます。ですが、「縄文人を感じる」ことは難しい。どうやって土偶を使ったのかが映像として想像できないのです。それは実は土器も同じです。
実用的な土器もありますが、おそらく呪術に使ったと思われる装飾過多な土器や、底部が鋭角になっていて自立できない土器もたくさんあります。これらの土器を使っている縄文人をちょっとリアルに想像するのは難しいですね。
再三書いているように、ぼくは今回土偶を観に行ったわけです。決して縄文人をリアルに想像することが目的ではなかったんですね。でも、それでは縄文という時代を理解できないし、そもそもの目的である土偶と土偶を生み出す縄文人の想像力を理解できないことに気がつかされました。
縄文人がこの丸木舟に乗って、外海に乗り出していったというのはリアルに想像できます。一本の樹をくり抜いて作った、この6メートルの丸木舟に乗っていたのです。そこに彼らのエートスの一部が宿っているのは間違いないと思いました。
おわりに
11月の博物館鑑賞は、以上のように江戸東京博物館でした。あまり体調が優れず、前月の東京国立博物館の鑑賞と比べると充実感が低かったのは否めません。それはもちろんぼくの問題です。
上述したように、ぼくは縄文を抽象的に考えていた節があります。土偶もアートとして受容していたのかもしれません。ですが、それは大きく間違っていたのです。土偶ですら縄文人の生活にもっと密着していたということを、映像的に解像度を高く想像しないといけない。
東京国立博物館の最澄展はそれができるんですね。彼および彼のフォロワーがどのような問題意識を持っていたのかは、詳しい仏教知識がなくても解像度が高くリアルに想像できるのです。
時代が下れば下るほど、想像力は届きづらくなります。それは「物」に触れることと、文学的な感受性によって、常に補完していく努力が必要なのです。今回の特別展鑑賞で、それを嫌というほど思い知らされました。
12月も何か鑑賞に行きたいですね。いまから何を観に行こうか考えています。考えているこの時間が、たのしいですね。
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