見出し画像

少女へ向けられたもの〜「アリス-へんてこりん、へんてこりんな世界-」に行ってきた。

はじめに

こんにちは。暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
みのくまです。

いやー、先日ぼくは誕生日を迎えましてね、ついに35歳になってしまいましたよ。
はっはっはっは、、、はぁ。。。

ぶっちゃけ、35歳は、衝撃です。。。
慣れるしかない、、、ですな。。。

さて、それはともかく、先日とある展覧会に行ってきましたので、そのレポートを書いてみますよ。
今回もお付き合いのほど、よろしくです〜。

「アリス-へんてこりん、へんてこりんな世界-」に行ってきた。

はい。
行ってきたのは六本木にございます森アーツセンターで開催されておりました「アリス-へんてこりん、へんてこりんな世界-」という展覧会です。

いやはや、そもそもぼくみたいな身体的にも精神的にも経歴的にも「THE・田舎っぺ」な人間には六本木に行くだけでHPがガンガン減らされてしまいます。
歩いているすべての人間の自意識が眩しいぜ。。。

とはいえ、たまにサントリー美術館に行きますので六本木も行かないわけでもないわけでもない。
妻の職場も六本木ではないですが、すぐ近くですので、縁がないわけでもないわけでもない。

いや、そんなに行かないし、縁もないです。そしてぜんぜん好きな街でもない。
それははっきりしていますが、まぁそれは置いておいて。。。

どーーん!!

いやーびっくりするほど観客は女性ばかりでした。
ぼくは一人で行ったのですが、少なくともぼくの周りには男性一人の観客はいませんでしたね。
このあたり、ちょっと「不思議の国のアリス」という物語の特徴かなと思います。
とにかく女性人気が圧倒的、ということですね。

ぼくもあまり詳しいわけではないので、ちょっと予習していきましたよ。

むかし読んだ覚えがありますが、帯を見るとたかだか12年前のことみたいです。
ちゃんと続編まで読む律儀さ。褒めて欲しい。。。

改めて「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」を読み直しますと、どこまでアレゴリーで解釈すべきなのか迷います。
とにかく破茶滅茶なお話なので、むしろ意味を求めるより、ただ読んでしまうほうがいいのではないか、みたいなことを考えちゃうんですよね。

ただ、普通に読めば、著者であるルイス・キャロルは、本作の主人公アリスに対して、ある種の欲望を向けていることは間違いありません。
彼には小児性愛者だったのではないかということがよく言われているようですが、ぼくもそれに近いようなものはあったのではないかと本作を読んでいて思いました。

展覧会に話を戻します。
先ほど書いたように、展覧会の観客はほぼ女性でした。
しかも年齢層はバラバラで偏りもない。

ルイス・キャロルの持つ、ある欲望の発露が「不思議の国のアリス/鏡の国のアリス」を生み出したとして、その主な受容者が女性であるという不思議な現実を、ぼくは目の当たりにすることになったのでした。

「欲望する側」と「欲望される側」

現代において、小児性愛やロリコンと呼ばれる「性倒錯者」は社会的に許容されていません。
それは、例えば、LGBTQなどジェンダートラブルを抱えた人たちと同一視されていないことを意味します。

その理由は明白です。
現代の規範では、性愛は主体性のある(と思われる)成人同士でのみ許される行為だからです。
片方が成人ではない、主体性のないアンバランスな性愛は性愛ではなく、「暴力」だと現代人は断罪しているからなのです。

ぼくは、この現代の規範について細かいことで思うことはありますが、大筋はその通りだと思っています。
ただ、物事は簡単ではありません。
ある種の欲望を「暴力」だと切り捨ててしまうことや、「欲望する側」を断罪するだけでは、「不思議の国のアリス」はなぜ女性に受け入れられているのかが、まったく理解できないのです。

ここでひとつ、防衛線を張っておこうと思います。
ぼくは決して「女性に向けられる欲望=暴力を、実は女性も喜んでいる」などと主張する気はありません。
もしかしたらそういう女性もいるかもしれませんが、そのようなことを一般論として語るつもりはまったくないのです。

少女アリスとは誰なのか?

ルイス・キャロルの欲望が小児性愛であったかは、ぼくには判断できません。
ただ、「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」を読む限り、そのような欲望に近いものが垣間見えてしまうように、ぼくには思えたのでした。

特に「鏡の国のアリス」はその欲望がストレートに出てしまっているように思えてなりません。
「鏡の国のアリス」は「不思議の国のアリス」と異なり、終始暗い雰囲気が付き纏います。
一緒にボート遊びをした実在の人物であるアリス・リドルが、もう手の届かない大人になってしまったことの悲しみが表現されているように感じたのは、ぼくだけではないでしょう。

ルイス・キャロルは明らかにアリスが「少女であること」にこだわっています。
それは小児性愛かもしれないし、そうでないかもしれない。
しかし、確実に言えることがあります。ちょっと回り道をして答えましょう。

「不思議の国のアリス」も「鏡の国のアリス」も、へんてこりんな世界にアリスが迷い込む物語です。
ちょっと狂気じみたキャラクターがどんどん出てくる世界で、子どものころのぼくは恐怖した覚えがあります。
ですが、主人公アリスはものすごく堂々と振る舞っていて、ぼくは驚愕しました。
なぜアリスは何も怖がらないのだろうと、とても不思議に思いました。

いま思うと、アリスが何も怖がらないのも、とても堂々としているのも、当たり前なのです。
なぜなら、あの不思議な世界は、すべてアリスありきで設定された世界だからなのです。

当然ですが、あの不思議な世界を生み出しているのは、著者であるルイス・キャロルです。
ルイス・キャロルがアリス周辺の環境や登場人物を設定しています。
それは換言すれば、アリス以外のすべてのものはルイス・キャロルの作り物に他ならないのです。

しかし、もっと元も子もないところまで考えると、結局は、アリス自身もルイス・キャロルの作り物に他なりません。
ルイス・キャロルは、作り物である理想化された少女アリスのためだけの世界を作ったわけです。

ここで確実に言えることがあります。
ルイス・キャロルは少女アリスの目線で不思議な世界を構築している、ということです。
そこから、ぼくはもう一つ先に問いを進めたい。
それは、少女アリスとは誰なのか、という問いです。

少女アリスは、アリス・リドルという女性がモデルであったことは知られています。
ですが、先述したように、すでにアリスは理想化され作り物になっています。

結論を言うと、ぼくは、少女アリスこそルイス・キャロル本人なのではないか、と考えているのです。

「アリス」に女性ファンが多い理由

永山薫という漫画評論家がいますが、彼は「エロマンガ・スタディーズ」という著作において、ロリコン漫画の読者の欲望を分析しています。
永山は、読者が未成年の少女に性的な欲望を抱くのは「読者自身が未成年の少女になりたいからだ」と書いています。

そして、ロリコン漫画を愛読する読者のなかで、本当の性倒錯者はほとんど見られず、大半の読者は「可愛いもの」に対する欲望があるだけだと喝破します。
ぼくには、ルイス・キャロルの心性を、この説が一番表しているのではないかという気がしてなりません。

きっと、ルイス・キャロルは少女になりたかったのです。
そして、主人公アリスはルイス・キャロルの理想の少女であり、自分自身だったのではないでしょうか。

そう仮定すると、「不思議の国のアリス」に女性ファンが多い理由もわかってきます。
この作品は確かに一方的な欲望が少女に向けられてはいます。
しかし、それは「暴力的」な欲望ではなく、「同一化」の欲望なのです。

ルイス・キャロルは、より「理想」の少女を生み出そうとしました。
この場合の「理想」とは具体的になんでしょうか。
それは「可愛さ」なのです。

「不思議の国のアリス」は、より「可愛い」ものを希求する作品なのだと言っていいでしょう。
だからこそ、女性が共鳴しやすく、ファンになる方も多いのだと思います。



今回の「アリス-へんてこりん、へんてこりんな世界-」を観覧して、驚いたことがあります。
それは、いわゆるゴスロリファッションと言われるものも「不思議の国のアリス」が起源だということです。

実際に展示されていた作品。

きっとアリスは、日本文化と言われている「Kawaii」文化の起源に位置するものなのかもしれません。

そして、さらにその起源には、男性の少女への同一化の欲望が隠されているのだと思います。
それはつまり「Kawaii」のユニセックスの可能性を開いているのかもしれません。

おわりに

今回は「不思議の国のアリス」について書いてみました。
個人的にはかなり危ういテーマで、どぎまぎしながら書き上げたものになっています。
おそらくあまり読み返さない記事になるかもしれません。。。

とはいえ、せっかく六本木まで行って「アリス展」を見たので、感想を書き記しておく必要があったのです。
読んでくださる方がご不快にならないことを祈るばかりです。

実はこの「アリス展」のあと、もう一つ美術館を回ったので、それについても記事をあげようと思っています。
よろしければ、そちらも読んでいただけたら嬉しいです。

では、また近いうちにお会いしましょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?