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ホールケーキを左手に提げて歩く人。


 目の前にホールケーキを提げて歩くご老人がいた。孫へだろうか、子どもへだろうか、奥様へだろうか、なんとも軽い足取りには見えなかったので、1人で食べるのだろうか、そんなことを思った。

 「ホールケーキ」

 なんて暖かくて素敵な言葉なのだろうか。

 これを読んでいる人は、最後にホールケーキを食べたのは、いつですか?振り返ってみると案外面白いもので、私はなんと3年食べていないことに気づきました。この3年の間には、20歳になった節目の年も含んでいる。なのになんで…なんで食べていないのだろう。雨がぱらつく午後3時、公園の前を通り過ぎながら涙がこぼれた。ホールケーキごときで、なんて思わないで。まん丸にイチゴのかわいいアクセサリーが付いた白いドレスをまとっているスポンジケーキは美しくて、何歳になっても子ども心を燻ぶられる。でも私はショートケーキが好きじゃない。あの白さの中から出てくる色鮮やかなフルーツたち、それを見るのが好きだから私はショートケーキのホールケーキ。
 ショートケーキを見ると偽りの人々にも見えてくる。あれだけいろいろなフルーツを使ってカラフルになっているのに、上から白を塗るだけで真っ白な何にも影響を受けていない、これからいろいろな色に染まっていくような思いを巡らされる。しかし、中身はすでにたくさんの色に染まっていて、表面だけ純白なのだ。まるで人間じゃないか。純白な人間は好まれる。だからこそ偽ってでも純白を手に入れたい、自分は真っ白だ、そういう人間の形がショートケーキのようだなと。そう思わされた。


 それでも、どうして白ってこんなにも美しいのだろう。あのおじいさんが提げている箱の中もショートケーキだろうか。どうして買ったのだろうか。自分のお誕生日だったからかな。そしたらおめでとうございますって言えばよかった。おじいさんにとってはただの通行人の一言にすぎないかもしれないが、私にとっては、ホールケーキの思い出を起こさせてくれ、久しく食べていない自分に気づき、自分は寂しい人間なのかもしれないということに気づかせてくれた大切な人。


「おじいさん、お誕生日おめでとう。」


 知らない人から知らない人へのおめでとう。意味ないなんて思わないで。そしたらこの文章も知らない人が知らない人に向けて書いている、これも意味のないことだとなってしまう。そんなことはない。

 意味を探すために何かを行っているわけではないし、意味がないから価値がないなんてこともない。していることに対して自ずと意味がついてくるのではないかな。意味ないことが意味かもしれないし。

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